京都・みなみ会館で上映中の

「エンドレス・ポエトリー」を観てきました。

その感想文を書きたかったけれど、

ポエトリーにはポエトリーで返すが

作家の礼儀と思い書いた

拙い詩のようなものを下記に記します。

 

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Poetry of poetry

 

全ては美しい。

一直線に歩こうとする時、前方に車が停車していたならば、

傍を通るべきか、車体にのぼって直線の軌道を

優先させるべきか?

優先させた場合、持ち主から

激怒されることがある。

しかし、軌道上に存在する見知らぬ人の家のベルを鳴らし

意向を伝えたなら、仕方ありませんねと

招き入れ、家の中を横断させてくれる人も、

いなくは、ない。

 

全ては美しい。

ヴィトゲンシュタインは、いう。

拠って人は死を経験しない。

経験は、命あるものが持つ概念であるから

死の後に何があろうと、もはやそれは

私達が議論している、経験とは全く異質のものだ。

 

性衝動からの抱擁。勃起と無関係の抱擁。

再会、或いは別離の儀式、

共感、または憎悪故の抱擁であろうと

抱擁であることに、間違いはない。

 

全ては美しい。

貴方の腕が両共、義手であり、

愛する女を愛撫出来ないのなら、

誰かに愛撫の腕を借りれば、いい。

全ては美しい。

難しく考えることは、ない。

どの腕であろうと、愛撫は愛撫だ。

所有者の名義が、どうして最重要なのか?

 

貴方を孤独へと追いやったものの正体は

只、所有出来なくなった喪失感ではないのか?

 

誰の手元にあろうとも、

車は車、家は家、愛は愛ではないのか?

何処にいようとも、どんな体験をしようとも

貴方が貴方であるように。

 

 

貴方とは、

貴方が経験する唯一の概念であり、

貴方が生きている間にしか認識されないものだ。

 

自分の言葉で語ることが重要なのではない。

人の言葉を——或いは自分自身の言葉を

貴方の

言葉で読むことが、大事なのだ。

喉を震わせ、声に出して読んでみよ。

頭から頭へトレースさせるのでなく、

己が語る言葉を、己の鼓膜に響かせてみよ。

例えば、この言葉。

全ては美しい——を。

 

僕達の全てが、唯一赦される所有は、

己の身体でも思考でも、ましてや物や土地や感情でもなく

己の行為それだけだ!

 

一直線が美しいのではなく、

一直線上に歩くことが正しいのでもなく、

一直線で歩く貴方の

姿のみが、美しいと定義され得るものだ。

人がそれを上手に行っていようと、

貴方には関係のない話だ。

誰の歩き方が秀逸かを論じるに、

どれだけ長けようと、貴方の秀逸が増すことはない。

 

全てとは、貴方だ。

 

行為は、貴方に拠ってしかなされない。

 

 

醜悪な情動からも

貴方は美しい行為を生み出せる。

行為がなされぬまま、構築されるので、

ロジックは自家撞着し、腐臭する。

行為が困難なのではない。

成功する行為だけを慎重に、

選ぼうとしているから困難なのだ。

 

          2017.12.12 嶽本野ばら