吉報あり。

話は1月まで遡る。

集英社からメールがあり、

妙な許諾の要請なのだが……と、ある。

 

読めば、モリサワが主宰する

「タイプデザインコンペティション2016」

なるものがあり、2012年から始まって

その3回目となる2016年のコンペで

銅賞を取った作品が

『十四歳の遠距離恋愛』の文章を

タイポポグラフィーのモチーフとして

使用しているので、

流用許可を貰いたいというものであった。

 

豊島さんという

デザイナーの方が使って下さっており

書体のサンプルが、

メールには添付されていた。

 

僕はすぐに

許諾する旨を伝えて欲しいと返信をした。

このような名誉は滅多にない。

使われても、

別に野ばらさんに一銭も入らないですよと

いわれたが、そんなことはどうでもよろしい。

 

 

賞というものに

何故か全く縁のない僕なのであるが

自分が賞を貰うよか、この受賞は悦ばしい。

 

説明しておくと、

モリサワは、写植のメーカーである。

DTPの進歩によって

写植はもはや無用のものとなりつつある。

 

 

僕が文章や編集の仕事を始めた頃は、

でもまだ文字を

写植で、打って貰っていた。

モリサワや写研の文字見本を観て

この文字を使おうと決め、

それを原稿と共に

写植屋さんに持って行く。

フォントの大きさや文字詰めも指定する。

写植屋さんはそれを受け、

文字を打ち出してくれる。

10文字しか入らぬところに

どうしても12文字入れたい場合、

写植屋さんに

「ツメ打ち出来ますか?」訊ねる。

 

写植屋さんは可能な限り

僕らのリクエストに応じる。

手作業で1文字ずつの

間隙を縮め、操作していく。

無理な文字詰めであっても、

美しく仕上げる

それが写植屋さんの

職人としての矜持であり

彼らは淡々と、

その作業をこなしてくれていた。

 

僕らが頼む写植屋さんというのは

モリサワや写研の配下にあるものではない。

モリサワや写研が農家だとすれば

僕らが依頼する写植屋さんは

その食材を加工する料理人のようなものだ。

 

だから、オッサンが一人でやってる

小さな写植屋さんも、あった。

 

スーパーのチラシの文字なども

写植屋さんで打ち出して貰わないと

印刷原稿が作れなかった時代だったから

街には一軒くらい、写植屋が、いた。

 

原稿が揃わず、

印刷屋のデッドラインを延ばせぬ場合、

1日掛かる写植の作業を、

半日であげてくれと

写植屋さんへ無理をふっかけ、

何度、泣かせたことだろう。

 

DTPの波が押し寄せ出した頃、

そのうち

写植屋さんがなくなる未来がくるかも

などと

僕らは、冗談のようにいっていたけれども

それは驚く程、早く現実のものとなった。

 

小規模の写植屋さんが

バタバタと店を畳んでいかれた。

大きな写植屋さんも潰れていった。

廃業を知らせる為、

挨拶にまわってこられる写植屋さんに

僕達は労う言葉よか、

渡すことが出来なかった。

僕ら自身が、スピードとコストの面から

DTPを使い出していたのだから、

その労いの言葉すら

どこかよそよそしいものであっただろうと

今になると、苦く思い出される。

 

 

多少、話が逸れた。

 

銅賞を受賞された豊島さんは、

タイポグラフィー制作では

高名なデザイナーさんらしい。

僕の文章をモチーフとしてくださったのだし

僕が嫌いという訳ではなかろう。

 

でも、好きとか嫌いとかでなく、

豊島さんが僕の文章をモチーフとしたのは

他の理由がある筈だ。

 

コンペに出すタイポグラフィーであるから

どれだけ汎用性の高いものであるかが

アピールされなければならない。

拠って、モチーフは、

ひらがな、カタカナ、漢字、句読点などが

いい具合に混合されていなければならない。

 

質の良いテキストであったとて

ひらがなばかりのものでは、判断に困る。

 

恐らく、何種類かの様々なテキストを

デザイナーは自分の作ったフォントで試し

もっとも効果の高いモチーフを詮議するだろう。

 

僕が文章を書く時に心掛けるのは、

フォルムの美しさである。

誌面を開いた時に、

文章全体のフォルムがいかに美しいか

それに心を砕く。

多少、妥当な表現でなくとも、

それの方が全体の文章の

調律に合っているのならば、それを採用する。

そうやって一言一句を並べていく。

 

中井英夫の言葉

——小説は天帝に捧げる果物。

一行たりとも腐っていてはならぬ——

これを実践する。

 

読者はたまに、

野ばらちゃんの文章は

漢字とひらがなの混ざり具合が

なんか、いい——と感想をいう。

音読してみると、

なんか気持ちいい——とも、いう。

 

そりゃそうなのだ。

それらを僕は

慎重にコントロールしている。

それ以外のことは

やっておらぬとゆうても

過言でないくらいだ。

意外と編集者や

書評家には見過ごされる。

 

何が書かれているかを重んじるので、

韻律や全体のフォルムを

眺めるが疎かとなるのだろう。

 

 

作品の良し悪しは

読む人が勝手に判断すればいいのだし

文学の賞を貰えぬは、

さほど悔しいことではない。

だが、

フォルムの美しさは幾何学の判断だ。

このようタイポグラフィーの

モチーフに選ばれるということは

それを認められた

とのことだと、僕は有頂天になる。

 

使われたのだぜ、

すげーだろう——と、自慢したくなる。

そのタイポグラフィーが

グラフィックや

タイポグラフィーのプロの審査を受け

認められたことを、光栄に思う。

 

豊島さんが受賞された

「なつめ」というフォントは

癖のある変なフォントだ。

 

 

これで文庫本の本文を組まれたら、

読み辛くてしょうがない。

最初、僕は失礼ながら、

取っつき辛かった。

でも

一文字一文字を慎重に追っていくと

万葉仮名だったり欧文フォントだったり

サブカル文字だったり、

あらゆる文字のパターンを

精緻にミクスチャーしてあるが

徐々に明らかとなってくる。

 

図形としてとても面白く、クールである。

 

1月に許諾をしたが、

コンペの結果を掲載した見本帳が

流布されるまで、

黙っているようにといわれた。

 

本日、見本帳が届いたので、

もう自慢してもいいらしい。

この見本帳を

欲しいと思う人もいるだろうが

印刷業界の関係者にしか

頒布されないので

一般の人は入手出来ない。

作家もこんなものは観ない。

美大生なら観る機会があるかもしれない。

農家の人が眼にすることはないだろう。

 

モリサワがこのような

コンペを行っていたことを

知ったことも僕を喜ばせることだった。

 

DTPの中で

組まれるフォントの可能性を探し

写植メーカーが今も最前線で

新しい文字を

追求し続けていたことが嬉しかった。

 

DTPが台頭してきた中で、

縦組みも横組みも出来る

日本語をどう美しく組めるか? 

困難なシステムの構築を

成し遂げたデザイナーもいる。

 

だから写植の時代がよかったと

懐古趣味に陥ることはしない。

 

今も昔も

活字を組む人々の尽力は続いている。

 

僕は只、己の文章が

更に美しい

フォルムを得られるよう努力するのみだ。

作家や小説家であるより

優れた文章家でありたい。

 

最後に蛇足(?)

ながら、豊島さんの

フォントは優れてるが、

モチーフで使ったこの作家は

身辺に問題のある人なので、

ケチがつかぬよう

モチーフを変更しましょうと、

なさらなかったモリサワの

寛大な処置に感謝を申し上げておきたい。

 

嶽本野ばら