キリスト教の布教は

領地の拡大を目的としていたとか

隠れ吉利支丹の信仰は

一つのレジスタンスであったとか

人文科学的な考証は、

どうでもよいのだと思う。

 

マーティン・スコセッシの

「沈黙——サイレンス」を観ました。

宣教師が棄教をした

知らせの真実を確かめに

弟子である司祭は五島列島へ向かう。

 

恐らく、予告などから得る印象は

壮絶な拷問を受けても尚、

信仰を貫く

吉利支丹の崇高な生き様を

描く作品との予測でしょう。

 

しかしこの作品は

隠れ切支丹をヒロイスティックには

捉えていませんでした。

追い込む者の残忍さに

焦点が当てられることもなく

信仰とは何か? 神とは? に就いても

語られませんでした。

 

キリスト、ユダの物語の

暗示は据えられていますが

宗教的(或いは芸術的)解釈はなく

対立する人々の構図に

重商主義、保護主義へと

向かう現代の

在り方を重ね、鑑賞するは

仕方ないことだけれども

それは主題とは別でした。

 

神の是非に就いてなら

ざっくりと、

無神論の立場を

とっていると思います。

 

しかしながら、それが故に

ここでは信仰——否、人々の祈り、

一体、彼等が求め、

従おうとしたものは何だったか?

拒み、従えぬものが何だったか?

が、克明と

浮かび上がるのです。

 

キルケゴールよりも

全てを現象として科学的に捉える

ハイデッガーの文章の方が

より信仰に対して

敬虔な態度が顕される

コントラストと似ています。

 

喜びからでなく、神は、

悲しみから生まれた。

信頼からでなく、

裏切りから生まれた。

賢さからでなく愚かさから、

善からでなく罪悪から、

愛でなく憎しみ、

永遠からでなく有限の法則から

神は、生まれたのだろう。

 

赦されたものに

福音が与えられるのではなく

赦すことの出来たものが

福音を知る。

 

この世界において

神は最も大きなものではなく

最も小さなものだ。

 

揺らぎ、消失し、

一番、無力なものが

神様で、

それだから僕達は

祈ることを大切にする。

 

私という

全知全能の獣を恐れ、

全く弱きものを保護しようとする。

 

願うことすら敵わず、

只、ひたすら、

それの名を呼ぶ。

 

映画が終わる時、

眼を閉じました。

虫の鳴き声だけが、

聴こえていました。

 

暫くして、

もしかすると、

まだ終わってなくて

エンドロールが出てないかもしれないと

少し眼を開くと、黒い背景に

エンドロールが流れていたので

安心して、また、

眼を瞑りました。

 

何を考えるでもなく

ずっと、

眼を閉じていました。

 

映画館から出て、

三条から四条まで歩きました。

四条から

電車に乗るつもりでしたが、

何となくまだ歩きたくて

五条まで歩きました。

 

空に星はなく、

多少、雪が降っていました。

雪が舞っているのも

寒いのも、

嫌なことではないと思えている

この瞬間の幸福を

有り難がりました。

 

アカデミー賞候補とか書いてたが

あんまし

日本では受けないだろうなぁ

・・と、思いました。

クリスチャンが観ると怒るかも

・・とも、思いました。

余り人には勧められない

映画だなぁと、思いました。

 

誰得の映画?

全く解らん――

と、苦笑いしました。

 

嶽本野ばら