東京のサイン会が終わりました。
9月6日@下北沢VV
どのサイン会もそれぞれに大切なサイン会ですが
本当に忘れることの出来ないサイン会として
これは僕の中に刻み続けられていくでしょう。

来てくださった皆さん、来たいけど来れなかった皆さん
会場を提供してくださったVVさんも含め
改めて感謝させてください。

サイン会の前に一件、取材が入っていました。
旧知の記者の方でしたから
ストレートな感想と質問をぶつけられました。
正直、こんなに早く復帰とは意外でした
といわれました。

そうだと思います。
自分自身のことですから、一年半、リリースにブランクがあると
まだ新しいのを出させて貰えないのかな
そろそろいいじゃないかと
業を煮やす思いをしていたことも事実なら
しかし、それは自分のことだからそう感じてしまうのであって
世間からすれば、数年、おとなしくしておれ
忘れた頃に復帰するくらいで丁度良い
という感覚なのだと思います。
作家なんてものは、通常でも、新作を五年振りに発表
十年間、何も発表してないなんて人はザラですから
一年半は、とても早い復帰の筈です。

でも僕の場合は、どのような状況であれ
短期間にバンバン、書けてしまうのです。
書き上がったものが貯まると、誰かに読ませたくなります。
整理整頓が苦手なので、次のものを書くには
前に書いたものを送り出してしまわないと
頭の中がゴミ置場みたいになってしまいます。

私達は貴方の出したゴミを回収させられてるのですか?
怒らないでください。その通りなので・・・。
でもゴミはゴミでも、資源ゴミです。


閑話休題。


書くのを自制しろといっておるのではないし
復帰するなといっておるのでもない。
道義的に、まだ活動の再開を猶予するべきだろう
法律云々ではなく
それこそが社会的に責任を取っているということを
態度で示す最も適切な方法だと
いうのが多数の意見だと思います。
生活はしなければならぬので
生活費を稼ぐ為に何処かでバイトをするのを
止めろといってるのではないから、社会復帰そのものが
けしからんのではないと
おっしゃられると理解しますし、
その意見は適切な意見だと、思います。

ですので、今回のサイン会は緊張しました。
サイン会に来る人は僕に好意的な人達ですが
サイン会はコンサートのように閉鎖された空間で行うものでは
ありません。書店の隅のオープンスペースでやりますから、
参加券がなくても、通りがかれば、
あ、あいつがなんかやってやがる、解ります。
腹たつから野次だけ飛ばしてやれと
遠くから野次る人がいてもおかしくない状態ですし
その人がたまたま、鞄の中に生卵を持っていたら
投げつけてくるかもしれません。

そういうことがあっても、しょうがないと思っていました。
再犯ですから・・・。

沢山の人が並んでくれました。
いつものように泣いたり、喜んだりしてくれました。
一人一人に、また逢おうね、いって
手を振って別れました。
無論、怒る人もいました。
ポカポカ、殴られたりもしました。
とても謝りました。
その光景を観て
皆が笑っていました。
でもその人も、最後、また逢おうね
というと、頷いてくれました。

来てくれていた人は僕の復帰を待っていた人達だし
SNSで書き込みを寄せてくれる人だって大半は
僕を贔屓目にみる人達です。
たまに掛けるエゴサーチでも
批判的だと解るものには余り眼を通さず
評判の良いものを読む傾向に偏りがちです。
わざわざ自分の悪口を収集するほど、僕は被虐的ではありません。
復帰を望む声ばかりを無意識に僕はチョイスしている筈です。
それが少数の特殊な意見であるは、心得ているつもりです。

それでも、僕は新しい本を出すことにして
何時ものようにサイン会もやったりしたことは
間違っていなかったと、今、確信しています。

その人達が百人くらいしかいないとしても
十人くらいであったとしても
たった一人でも
僕は、逢いたいと思ってくれる人の前に立ちます。
読みたいと願ってくれる人がいるならば
書きます。
常識的にまだダメに決まっているし、
長い目でみれば早く復帰することはマイナスになることを
計算するべきだといわれても、
そんなのは嫌です。
今日、逢うのを我慢したら
一年先にすごく一杯逢える約束があったとしても
今日、逢いたいものは、今日、逢いたいじゃないですか。
そういうのが恋愛じゃないですか。
計算で、損だとか得だとかは、測れません。

よく、宗教だといわれます。
あいつの熱心な読者は信者だからと
カルト教団のように扱われます。
あいつが何をしようがファンは赦してしまうんだ
と、プチ創価学会のように揶揄されます。

でも、大勢の前で説教されてポカポカ殴られる教祖は余りいないし、
これがカルト教団なら、僕はもっと酒池肉林を貪れている筈です。
びっくりするくらいに可愛い少女(或いはご婦人)だって
かなり、来るのです。
その気になれば、神の御意志だとのたまい私利私欲を尽くし放題です。
なので、宗教だとカテゴライズされるのならそれはそれで
構わないのですが
どっちかというと、いい宗教です。

勧誘とかも特にないし・・・・。

ルターの説いたプロテスタントみたいに、
書かれているもののみを教義とせよと、
簡単なことしかいいません。
壺も売らないし、奉仕活動とかもないです。

一体、本当に伝えたいことが伝わっているのだろうか?
作家活動を続けてきた中で、疑問が湧き、徒労を覚えた時期もありました。
でも、サイン会で、
震えながらも真っ直ぐに見詰め、眼の前に立つ人達が
その度に僕に新たな動機をくれました。
或いは、
逢いにはいかないけどと、出版社経由で送られてくる手紙が
次に何を書かねばならぬのかを教えてくれました。
殆どの手紙には、こう書いてあるのです。

まだ逢うことは出来ないけど、
いつかそのうち、きっと逢いにいきたいです。

女子だけじゃないです。
男子の手紙(中にはオッサンもいる)にも
そう書かれているのです。

何の為に作品を書いているのか?

多分、それは読んでくれている人に逢う為です。
そんなの小説を書く理由にならないといわれるかもしれないし
動機が不純だと罵られるかもしれませんが
僕の場合はそうです。
だからといって、
握手しないよりした人の方が投票所で名前を書いてくれる確率が
高くなるという政治家の選挙対策のようなものとは
まるで異なるので、別に問題はないと思います。

書き上がったものは新しいものを書く為にゴミ出しする
みたいなことをいいましたが、
刊行するに乗じて読んでくれる人と逢うと、
今度はこういうのを書かなければというのが身体の中で
ぐんぐんと具体化されていくのです。
このところ、SNSなどで絡がってはいるけれども実際には逢ってないから
新作を書いてもそれが本当に必要な作品なのかどうか
消化不良のまま、仕上げてきていました。
だけども、もう今は違います。
何を書かないといけないのか、はっきりと解っています。

ゴミ出しは大事なことなのです。

ここからが本当の復活です。
君に必要なものを僕は作ります。

沢山の人にはそれほど必要ではないけれど
君はとても必要だと感じているものが何かの詳細を
僕は教えてもらったので、
迷うことなく選んで、ラッピングして
差し上げることが出来ます。

未定ながら、多分、今月中に関西、
十月になってしまうけど
追加での東京のサイン会がもうすぐ決まります。
そこで通りがかりの人に
生卵を投げられることになるのかもしれないけれども、
やります。
教祖様なので、やるのです。
キリスト様だって布教活動の際には
ずいぶんと非道い目に遭わされなすった。
落花生くらいなら頭に命中しても、さほど痛くないですから
それを投げてくるのは、友好の証だと判断します。

とりあえず、@下北沢に来てくれた皆、重ね重ねて、ありがとう。

                        嶽本野ばら