お誕生日です。

たくさん、お祝い
ありがとうございます。

いろいろあったけれど
生きていれば
平等に
一年に一度は必ず
お誕生日は来るものですね。

京都での暮らしは
随分と慣れました。
が、やはりまだ
何処か、お客様気分が
抜けません。

新京極にはドラッグストア
がいっぱい出来ているし
みゅーずは、ないし、
詩の小路ビルに
スーパーセンチメンタルは、ないし・・

僕は18の頃、初めて
京都、四条にあった
梁画廊という現代美術の画廊で
個展をして、世の中に向け、
創作活動を始めた訳ですが、
このスーパーセンチメンタルという
お店が大好きで

(変なものばかり置いている
照明が極度に落とされた
リリカルな風情の雑貨屋さんでした)


アーティストのハンドメイドな
ものなぞも置いていたので、

紙粘土でバッヂを作って
それに絵を描いて
ラッカー塗装をしたものを
持ち込み、頼んで、
置いて貰ったりしていました。

なので、もうこのお店がないのは
とても悲しかったり、します。

そうして
美術やったり、音楽やったり
お芝居やったり
紆余曲折し、
大阪で、小さな雑貨屋さんの店長
(といっても店員、僕だけ)
になりました。

お店の雰囲気は
スーパーセンチメンタルを
模倣しました。
スーパーセンチメンタルより
更に暗く、最低限の間接照明のみに
しちまったものですから
お客さんからは、商品が観えない!
と、よく不平をいわれましたが
気にしませんでした。

儲かりはしませんでしたが
そうして雑貨屋さんをやっていると
何故か、ファンクラブが出来ました。

人気者になったものの
儲かりはしないので
食べていく為に、ライターのバイトを
始めました。

こうして
文筆の仕事を開始する。
そして、フリーペーパーに執筆する
ことになったエッセイが『それいぬ』です。

好きなことを書いていいといわれたので、
どうせ三回くらいで終わる筈、
誰の共感も得られないことを
書いてやろう。

無茶苦茶なことを書いてみたら、
意外にも、沢山、共感のお手紙を
貰えました。

あれ? と思いつつ、
そうして支持してくださる方がいたので
連載は、5年くらい続きました。

連載終了後、何時、本になるのですか?

問い合わせを沢山、貰ったので、
本にしなければならないのだと
思いました。

しかし、ファンクラブがあるとはいえ
只のライターです。
本にしてくれる出版社なぞありません。

仕方なく、自分で売り込むことにしました。
大きな出版社では相手にして貰えないと
解っていましたから、
国書刊行会を狙いました。
自分の好きな本は国書刊行会のものが
多かったので、ここなら
話くらいは聞いてくれる気がしたのです。

出版は決まったのですが、
初版が2千部という悲しい
自費出版に毛が生えたような条件でした。

しかし、僕はこれが世に出れば
最初はショボくとも、ベストセラーになる
に決まっている! と信じました。

でも、なりませんでした。
少しは売れたのですが、
現実は、厳しいものでした。

本を出すと、ライターの仕事が
なくなってしまいました。

周囲が、作家になった人に
今までのようなライター仕事は頼めないと
変に気を回してしまったのです。

仕方ないので、東京に出ることにしました。
宛は何もなかったのですが、
関西にいるよりは出版社もいっぱいあるのだから
少しはマシだろうと安易に考えました。

東京に棲み、伝手をたどり
仕事を貰いに奔走しましたが、
余り仕事は貰えませんでした。
なので、最初の一年くらいは、とても暇でした。
暇なので、知り合いの編集者が
小説でも書いてみればいいというのに従い
小説を書いてみることにしました。

それが「世界という名の雑貨店」です。
スーパーセンチメンタルに制作物を置いて貰い、
そのうち雑貨屋になって、ライターにもなった。
そのような自分の経緯を安直に
シチュエーションとしました。

小説の中では、かっこつけて
お店の名前は「世界の終わり」ですが
実際にやっていた雑貨屋さんの名前は
「SHOPへなちょこ」です。

自分で思っていたよりいい作品になったので
文芸誌に売り込みに行くことにしました。
しかし、ことごとく断られました。
上手いのは認めるが、こんな小説は
前例がないから掲載出来ないと、いわれました。

それでも、ある文芸誌の編集者が
吉屋信子などの少女小説が好きなら
そういうものを書いてみればいい。
ならば、載せられるかもしれない
と、いうので、
なーんだ。そんなの簡単じゃないかと
思い、帰ってから
「ミシン」を一週間で、書き上げました。

で、どうだ!
と、鼻息荒く、また持っていったなら、
前の作品より、文芸誌では扱えない類のものだ

と、いわれました。


僕は途方に暮れました。


まだよく知らぬ東京で
何かバイトをしないといけないのかなぁ
と、貯金も底を尽きかけた時、
友達が、小学館の編集者を紹介してくれました。

エンターテイメントばかり扱っている人だし
観せても意味ないかもしれないといわれましたが
読んで貰うだけ読んで貰おうと、
二本の作品を携え、小学館に行きました。

いろいろ読まないといけないものが
あるから
眼を通せても半年後くらいに
なりますといわれ、僕も期待してなかったので
はい、暇な時に読んで下さいと
預けて帰りました。

すると、一週間後に電話があり、
単行本にするといわれました。
散々に駄目だといわれ続けてきたので
そんな上手い話がある訳ない
騙されていると、思い、
関西にいた頃に知り合った
唯一の作家の友達、吉本ばななさんに
電話しました。
ばななさんは、
うん、そんな話は信用してはならない。
ありえないといいました。

でも、結局は作品がいいのか悪いのか
だしね、私に読ませてよ
というので、ばななさんに送りました。

そしたら、三日後、ばななさんから
電話がありました。

「野ばらちゃん。これはいい。
推薦文を私が書くから絶対に出版しなさい!」

こうして『ミシン』が出ることになりました。

漫画のような人生です。

初めて個展をしたのが18歳で
今日、48歳になったので
芸能(?)活動、約30年です。
東京に引っ越すまでに約15年、
職業作家になってから15年くらい。
まさか、この節目に
京都に戻ってしまい、
次の作品を出すはっきりとしたメドも
立たぬ状況になっているとは、
思ってもみないことでしたが、
それならこれを機会に
もう作家を止めて、他の仕事を
しようかなとも思ったりもするのですが、
とりあえず、寒いので、
ハローワークに行くのは
春になるまで待ちたいです。

母と妹が
暫くは養ってくれるというし、
書きたいものがどんどんと出てくるので、
今は、甘えることにします。

いろんなこと、やってきたなー
と、振り返ります。
ここまで生きている予定じゃなかったのに・・
苦笑もします。
もう、白髪とか生えてるし!

鏡に映る自分がもはや、
かつて魔術的なくらい美少年であったが、
明らかに劣化しているのを目の当たりにすると、
ネコミミ、つけてる場合じゃない・・
と、思います。

でも、やっぱりMILK着たいし、
スカートにはパニエ仕込みたいし、
SEX PISTOLS聴くし、
新しいMacにシールが、貼りたくなります。

でも、そろそろ大人としての風格も
出さねば! なのです。
改名しようかなぁと、思ったり・・・

嶽本野ばら JAPAN
嶽本野ばら(大)
NEONGENESIS嶽本野ばら・デジタルリマスター
嶽本野ばら旅情編 
京都花見小路殺人事件~舞妓さんは名探偵


こんなこと、書いてるから駄目なんだー!!!!


でもねぇ、このような変な人生、特殊な人生からでも
平凡だという君に、役に立つことが、
あると、思うのです。

もし、
自分の好きな雑貨屋さんに
自分の紙粘土で作ったバッヂを置いて欲しい
と、持って行かなかったら、
僕は、その後、雑貨屋になっていなかっただろうし
雑貨屋になっていなければ、
「世界の終わりという名の雑貨店」は
書かれなかっただろうし、
端折ってしまいましたが、
『ミシン』がヒットしたのは、
余り売れなかったけど、
国書刊行会で『それいぬ』を出していたのを
知っている一部の書店が
猛プッシュしてくれたおかげだったのです。


全てはつながっています。


今日の気持ちがどういうふうに
明日につながるのか
僕達はまるで解らないのだけれど、
今日の気持ちは
昨日の気持ちとつながっていることは
理解出来るから、
無駄なことは、一つもない。

君がこれを読んで、つまらない、
読んで損した、と思ったとて
その未来は、君がこれを読んだことを
踏まえた未来であって、
君がこれを読もうと思ったけど、
読まなかったなら、
読んでしまった未来とは、
違う未来になる。

君という原因は、
この世界の未来に影響している。
発言力の大きい人のそれも
君のそれも、全く同じもの。


もし、君が半年前、学校を休まなかったら、
デビットボウイは今も生きていたかもしれないし、
明日、君が、マクドナルドに行くか
モスバーガーに行くかで、
この世界に水爆が落ちるか、
落ちないかが決まったり、する。

だから、自信がなくても、
自分のことは自分で決めた方がいいのだと、思う。

世界の全ての未来の責任は、君にあるのだから。
自分の影響力を、過小評価しては、いけません。