本が、二冊、
違うところから、届きました。

一冊は、姫乃たま「潜行」。

地下アイドルが実情を語るいわば自伝的な暴露本です。

読みながら、吐き気を伴う激しい嫌悪感を憶えました。

ここで書かれることに、さほど目新しい事実はありません。
今のメジャーも含む「アイドル」と呼ばれ、
また名乗り、
カテゴライズされる女子達の現実と
それを取り巻くファンや運営サイドの現実が
あけすけに語られているのみです。

アイドルやそのファンならずとも
一般的にみていれば、こういう感じなのではないのかな
多分、こうなのだろうと思いつつも
口に出してしまうと、
嫌な気分になってしまうので
あえて、いわない、考えないことにしておきたい
事柄が書かれています。

僕は恐らく一般の人よりも
メジャーのメディアの内情、
インディーズのメディアの内情、
担ぐほう、担がれるほうそれぞれを
当事者として知っているつもりなので、
当人もファンも運営も、
こじらせている人間
と、いう暴露に関しては
ああ、身も蓋もないこと、言っちまったな
と、
笑うのみですが
しかし、当事者であるからこそ
嫌悪感を憶えることが、書かれていない部分に
あることに気付かされます。

それは、そのようなそれぞれの立場の
こじらせ具合を、上手く
お金儲けの為だけに利用している人が
存在する、ということです。

姫乃たまは、全てのアイドルは
「認められたい」
からアイドルになるのだ、と書きます。
本当に、身も蓋もないことです。
ファンもまた、しかし
「認められたい」から応援をします。

アイドルに限りません。
全ての表現は「認められたい」
自意識から派生するものですので
表現に携わる者の殆どはこれから
逃れることがなりません。
小説家なんてものは、もっともそれの
強い人種がなるものなのでしょう。

僕がヘンリー・ダーガーなどのアーティスト
に対して頭が上がらないのは
彼等はその自意識を
誰に認められたい欲求を持つことなく
作品として定着させる作業を続けた者達で
あるからです。

自意識・いこーる「認められたい」では
ないのです。

が、大抵の自意識は「認められたい」
を望みます。

僕は今、病院で
薬物依存のカウンセリング
を受けています。
カウンセリングというより勉強会
みたいなものです。
そこで最初に主治医からいわれたことは
非道く僕を惹き付けました。

何故、人は依存に向かうのか?

大きな理由は、孤独感と
自己無価値観からの逃避である。

僕は孤独を嫌わない人間です。
徹底的に孤独な状態はやはり嫌ですが
どちらかというと
孤独には強いし、それを好みます。
しかし、自己無価値観に関しては
滅法、弱い人間です。
カウンセリングを受けるまで
僕の中に、自己無価値観という
概念は存在しませんでした。


自分にとって価値があればそれは
誰に価値を見出されなくとも
価値があるというのが僕の考えですから
僕は自己を無価値に思う場面に
でくわしたことがなかったのです。
しかし今回の事件において
僕は僕自身を否定しなければならなくなりました。
すると、かつて味わったことのない
不安に襲われました。
自分自身の言動、思考に自信が持てない・・
これが、自己無価値観を感じるということなのでしょう。
自己無価値観を持っていないのではなく
自己無価値観を補完する作業を無意識に
ずっと続けていたので、それを回避している
行動をしていることに気付いていなかったのです。

僕がもっとも根源的に恐れているものこそが
自己無価値観であったと考えることが出来ます。

この自己無価値観、「認められたい」欲望を
互いに充足しあうことを
僕達は、常にしているのだと思います。
が、その人々の相互システムに上手く介入し
仲介をすることで、欲望を操作し
物質的な利益のみを掠め取ろうとする者が
存在します。
その者達の周到な行為に対し、僕は吐き気を
憶えずにはいられないのです。
それをすることは悪いことではないのですが
やり過ぎるとそれは人をとても傷付けます。
死にいたらしめます。
魂を崩壊させてしまうのです。
だけど、その行き過ぎた行為を
誰も法律などで裁くことは出来ないのです。

「認められたい」女の子の欲望で
私腹をこやそうとする人達が、僕は嫌いです。
「認められたい」欲望の為に
行動をする女の子に自身を重ね合わせるからです。
するのは、大抵、一部の男性です。
男性という種が内在する一部分なのかもしれません。
(無論、女子でそれをする人もいます)
だから、僕は男性が苦手なのかもしれません。

僕は、姫乃たまという人の活動を
よく知りません。

何故によく知らない人の本が送られてきたかというと
この本の中に、彼女と僕との対談が収録されているからです。
アイドルに就いて地下アイドルのインタビューに
こたえて欲しいといわれたので引き受けました。
この本に載ってるよと教えないとならないけど
自分の対談のみ確認して人に教えるのもなんだしなぁ
と思い、全部、ちゃんと読むことにしました。
そして、今、自分が、
否、ずっと自分が抱えてきたものが
違う方法で吐露されている内容に不思議な
感慨を受けたのでした。

もう一冊、送られてきたのは
吉屋信子の「からたちの花」です。

この作品は、身も蓋もなくいうと
ブスな女のコが主人公の少女小説です。

「愛に飢えた、
ある少女の魂の遍歴を綴った成長物語」

と、しかつめらしく帯にはありますが、
もっと解りやすく書けば、

「ブスだから愛されない少女は
どうやって自己価値をみつけることが出来たのか?」

に、なります。

吉屋信子は少女小説でデビューし優れた作品を遺しましたが
同時期、「青鞜」にも作品を発表しています。

「青鞜」とは平塚らいてふが中心となって発刊された
文芸誌です。
「青鞜」というのは、教養と知性を持つ女性のことです。

「青鞜」の創刊にらいてうは
「原始女性は太陽であった」という言葉を載せています。

吉屋信子は少女小説からやがて中間小説と呼ばれた
大人向けの小説を書く作家になっていきますが
しかし「花物語」の頃から一貫して書き続けたのは
女子としての生き方でした。
フェミニズム運動とリンクし、男性への批判、嫌悪
が、その作品に反映されてしまうのは時代的に
致し方ないことなのだと思います。

個人的には僕は、吉屋信子は、ガチガチのフェミニスト
ではなかったと思っています。
女子として、語る時、相対的に男子の愚かさを
引き合いにだすしかなかったのだと思います。

ですから、吉屋信子の作品に対し、
小林秀雄は、怒ったのです。
男子たる自分を侮辱するものとして
吉屋信子を
感じずにはいられなかったのではないでしょうか。

姫乃たまの「潜行」は嫌な内容の本ですが、
一つ、とても気に入ったセンテンスがあります。


「外部から見れば濁ったグレーゾーンにいる彼女は、
ようやくほしかった自分の服を着て、笑っていました。」


僕は、自己価値なんて、こんなもので
いいのだと思うのです。

男子が求める大層な、自己価値なぞ、
いらないや、と、自分にもいいきかせます。