アニメイトに「サリシノハラ」があるかどうか
確かめにいくと新刊コーナーに
平積みされていたので
嬉しくてつい、買ってしまった。

自分の本を買うことは余りない。
出版社から数冊貰えるので
買わねばならない場合は
もう人にあげて持っておらず
でも渡したい人がいる
という時のみである。

まだ「サリシノハラ」は出たばかりななので
うちに10冊ある。

でも買ってしまったのだ。

アニメイトが好きだからである。

アニメイトは行くだけで気分が高揚する。

これはたとえ、特に今は買うものがないという時ても
MILKやBABYなどの
可愛いお店に行くと高揚するのと同様だ。

アニメイトで「サリシノハラ」を買うと
僕とみきとPさん、CHRISさんのサイン
が入ったミニ色紙がついてくる。
(無論、印刷ではあるが・・)

そしてレジに持って行くと
店員さんが
「透明カバーはいりますか?」
と訊いてくれる。

「透明カバーはいりますか?」
ヲタなお客さんへのアニメイト
ならではのサービス。

これがまた嬉しい。

なので買ったこの「サリシノハラ」は
買ったままの状態で保存しておこうと思う。


今日、そして思ったのだが
ヲタ文化にカルチャーショックを受けてから
僕はヲタになろうと頑張ってきた。

でもヲタであることをもうやめようと思う。

結局、僕は好きなものを
好きでありたいだけなのだ。

そして好きなものをお客さんの気持ちを
考えて販売してくれているショップが
好き

ただ、それだけなのだ。

昔はパルコブックセンターやリブロが
好きだった。
自分が好きな本を
意匠をこらして陳列、販売してくれている本屋さん
そこに行くだけで気分があがった。

今ならヴィレッジヴァンガードさんだろうか?

お洋服でも
好きなお洋服があるだけのショップは嫌だ。
たとえばMILKにしろ
僕は同じものが売っていても
必ず本店で買う。

お買い物とは
お店の雰囲気や内装なども含めて
楽しむものではないだろうか。

僕は高揚したいのである。

澁澤龍彦を読むのと同じ感覚で
僕は「涼宮ハルヒの憂鬱」を読む。

DIORを買うのと同じ感覚で
109ブランドも買うし
ロリ服も、ジャージも買うし、着る。

カラヤンを聴くのと同じように
ソニックユースを聴き
AKBを観にいくのと同じ感覚で
ライブハウスに通う。

バルティスを観るように
「ラブライブ」を観る。

高級も低級もあるものか。

好きで、自分を豊かにしてくれるものならば
文学であろうが漫画であろうが
クラシックであろうがパンクであろうが
アイドルであろうが
それは大切なのだ。

吉野家の牛丼より吉兆の和食のほうが
素晴らしいに決まっているし
その二つを比べるなんて馬鹿げている。

が、吉兆よりも吉野家が好きな人だっている。
それはそれでいいのだ。
吉野家のほうが美味いというと
味音痴だと嗤われるだろう。
が、嗤われたっていいのだ。

好きなものはしょうがないではないか。

そもそも僕はオタクが嫌いだった。
僕等の時代のオタクは
漫画やアニメってバカにするけど
漫画やアニメだって文学や芸術作品に
ひけをとらない深遠なテーマを有しているのだ
と、自分達の嗜好を正当化しようと
必死だったからである。

今のヲタはそんなことをいわない。

自分達の好きなものは低俗かもしれないが
好きなものは仕方ないので
放っておいて下さい。
嫌いにはなれなせん
と、思っている。

かつては芥川も寄稿した
100年以上の歴史をもつ
「新潮」に作品を発表しつつも
アニメイトに著作が並んでいる。

僕はそんな嶽本野ばらという作家が好きだ。

作家だけやっていれば神秘性があり
作品も売れるのに
客が入る訳でもない音楽活動をして
結果、評価を下げている
嶽本野ばらという芸術家が好きだ。

好きだ・・・というより
こうしておいたほうが
世間的には得なのに・・
ということがどうにも僕には
出来ないのである。

私は好きを諦めない

とは、「ユリ熊嵐」の言葉だが
僕も好きを諦めない。

どんなに損をしたって
好きを諦めない。

ユリ承認!!!!!

ひとりカブトの銀子になろうと
私は好きを諦めない。

がうーー

なのである。