誕生日だったんですよ。

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といっても特に何もしていないのです。

昨日、新作を少し書き始めました。

一週間くらいアメリカにいってきたんですが
そしてそれはとても有意義なことだったのですが

帰ってきてからすごく憂鬱というか
無気力というか
もう何もかもが嫌だ!!!

みたいな気持ちになってしまったので
小説を書き始めたのです。

小説は一般に純文学とエンタテインメント小説に分かれます。

別に純文学が高尚でエンタメは娯楽だとは思いません。

純文学でありながらエンタメなものもあるし
その反対もあります。

区別なんてする必要はないです。
どちらが優れている訳でもありません。

ただ、やっぱり純文学とエンタメ小説というのは
違うものなのだと思います。

例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」は傑作です。
しかしそれを読んで作者の谷川流さんが一体
何を考え、どのような人生を歩んでいるのか
それは読み込んでも解りはしません。

無論、彼の趣味、嗜好などは解りますが・・

それがエンタテインメント小説です。
推理小説などもそうですよね。

一方、純文学というものは
その作者自身のことしか書かれていないものなのです。
例えばドストエフスキーの「罪と罰」は
優れたミステリだともいわれますが
読めば結局はドストエフスキー自身のことしか
書かれてはいません。
だからドストエフスキーの作品は純文学であることになります。

更に付け加えておくと純文学か否かは、テーマに関係ありません。
よく小説は文体だといいますが
文体そのものが作者自身である小説
これが純文学です。

僕が書いているものは恐らく純文学です。
何故なら自分のことしか書けないからです。

先日、「サリシノハラ/47」というラノベを仕上げましたが
ラノベでも僕が書くと全くエンタテインメントにはなりませんでした。


生きることが辛いので小説を書きます。


そんなものを読ませられる読者は可哀想ですが
純文学ってそんなものなのだから
これからも我慢して読んで下さい。

でも僕という人間は考え方も嗜好もあらゆることが
マイノリティで人の共感を殆どえられません。

ですから、そんな人間の書くものを
よく読んでくれる人がこの世にいるものだと
いつも驚いています。

一応、これで生活もしていられる訳ですし。

読んでくれる君がいてくれるから
僕は生きていられる。

これは決して大袈裟ないいかたではありません。

時に、世間は嶽本野ばらのファンは野ばら教の信者
カルト集団みたいなものだとバカにします。

でも僕はそれでいいんじゃないかと思います。

決してツボを売りつけたりはしませんが
僕のことを解ってくれる人なんて
本当にちょびっとしかこの世界にはいないのですから
それならば、カルトでいいではありませんか。

生誕祭なので、お祝いのメッセージを沢山いただきました。

長生きしてねと書いてあるものもある。

これには困ります。

何しろ生きることはとても辛いことですから。

でも、僕の作品を読んでくれるような奇特な人が
そういうのなら、生きなきゃ申し訳ないなと思うのです。

だから多分、明日も小説を書きます。