三里塚に生きる
をようやく観る。

三里塚闘争に関して知識がないと
少し難しいかもしれない。
この映画ではその闘争のガイドラインに関してはほぼ触れられていない。
かといって僕がそれに就いて詳しい訳でもない。

観にいくなら少し予習してからのほうがいいだろう。

かつて成立闘争ともいわれたそれは
名の如く、成田空港建設の為に
農地を没収するとほぼ何の相談もなく決められた三里塚の農民らの
反対運動である。

学生デモ、左翼運動が日本で盛んになった頃
農民らにそれらが加勢し
やがて運動は泥沼化する。

僕がこの運動に興味を抱いたのは当時の農民の戦いかただった。
角材や金属バットを持って機動隊とやりあった学生等とは違い
農民達、特に婦人行動隊となった女性達は
素手で対抗をした。
彼女達は頭から肥を被り、機動隊に向かった。
余りの臭さに機動隊は逃げた。

多くの活動家達がこの非武装の闘争に闘争の本質をみる。

映画の前半、婦人行動隊と機動隊との衝突が映される。
多くの農民達は無学で、闘争や理念といったものに興味のない人達であった。
婦人行動隊も、成田建設の話さえなければ
造反分子にならなかった単なる農家のおばさん達である。

彼女達は眼の前の機動隊の一人ずつに
あなたのお母さんはあなたがこんなことをするためにきっと
あなたを育てたんじゃない
と抗議する。
しかし機動隊は眼をあわせない。
まるで耳にないっていないかの如く無表情だ。

女性は感情の生き物だからダメなのだという。
が、これ以上の説得があるだろうか。
理不尽な権力を行使させられるのは
結局、駒になる機動隊員らだ。
彼等は自分の意志で三里塚の住人を追い込もうとしたのではない。
命令され、仕事だからやっている。

だからこそ、婦人隊は
その良心に問い掛けたのだ。
あなたがやりたくないことは解っている。
従って、その良心に立ち返ってくれないだろうか、と。

きっと全ての人々がこの機動隊と同じなのだと思う。
一人一人は善良で、他人の為に涙を流し
悪を憎み、騙さず、よりよくなりたいと思っている。
今の安倍総理だって個人的につきあえば
多分、いいおじさんなのだろう。
しかし、組織の一部となりその分担を与えられたならば
自分の考えよりも命令を尊重するようになる。
自分の頭で考えたことを放棄してしまう。

何故なのだろう。
自信が持てないのだろうか? 
自分の考えで動いて自分の生活や自分の家族の生活
を失うことに恐れを抱くのか?

映画は機動隊に死者がでて
反対運動の者からも自殺者がでる
という局面に至り、運動の意味が変容していく様も暴く。

そして反対運動は決して純粋な闘争だったとはいいきれず
そこで巧く立ち回り農地を高く売ることが出来た
農民の事例も紹介する。

貧しい抵抗者達を美化するのみの告発作品ではない。

只、そうして土地を売ることになった人の言葉の中からも
この闘争が単なる立ち退き反対ではなかったことを
読み取るのは容易だ。

ある農民は、結局、沢山のお金を貰った。
一反、二千万。
もしあのようなことがなければ、そんな大金に換わる
土地ではないという。
が、お金の問題ではない。
農地は売買出来るものではないということを
説明しようとしても説明出来ぬもどかしさに
口をつぐんでしまう。

開発側の立場からすると
何処かに空港を作らなければならないのだから
誰かが立ち退きせねばならない。
農地を巨額で買収するのだから
その金で、もし農業がこの先もやりたいなら
他の土地でまたやればいいだけのこと、なのだ。

しかし、農地というのはそう単純なものではない。
売ったお金で新しくもっと広大な農地が買えたとして
代用出来ないのが農地なのである。

何百年とその土地で農作を繰り返し
農地は出来上がり、年降るごとに肥えていく。
農地とは個人のものでなく
所有はあれど、土地の農業従事者が協力して
耕すからこそ収穫を得られる公共の財産なのだ。

時間、自然との因果関係に見合う代価なぞない。

法律や認識上は所有出来る土地への考察と
個人所有出来ない農地本来の在り方の衝突。

今なら農地とは単なる財産に非ずと説明する学者もいるが
当時はまだ有識者の中にもそのような考えで農地を捉える
者はいなかった。
只、農民達は何となく知っていた。
説明出来ないけれど、経験上、解っていた。

僕達は自分が大した者ではないことを知らねばならない。
意識出来ることは無意識の一角であるのを心得ていなくてはならない。
常に立ち止まり謙虚に小さな囁きにも耳を貸す。
それが知恵というものだ。

しかし不注意にも、そのことをすぐに忘れる。
思い出す為にこのような作品が作られる。
たった1800円でその行為が出来るのなら
安いものだと思う。