Twitterに死にます、もう死んでもいいですかというコメントが
続け様に入った。

やめて欲しいと書いた。

僕はデビューしてから多くの自殺未遂者、自殺を羨望する読者と出逢い
悲しいことに自死にいたった読者の遺書も何通か持っている。
その遺書は死んだ人達の遺族から送られて来たり
友人から野ばらさんに届けて欲しいといわれ
出版社経由で送られてきたものだ。

イベントで死んだ娘さんからの僕宛の手紙をお母さんが届けてくださったこともある。
貴方だけが娘の生きる支えでしたが、突然、自害してしまったんです。
といわれ、僕は何を返すことも出来なかった。

僕の読者は限られている。
僕の作品は多くの人に受け入れられる類いのものではない。
しかし、自分でいうのは憚られるが特定の人には
生きる希望を与えることが出来ると自負してきた。

だからそのような自死の報告を受けると僕は自分の無力さに
耐え切れなくなる。
たった一人であっても救えなかったことに責任を感じる。
かといって、作品を発表する以外、僕に何が出来るだろう。
実際問題、逢いにいって抱き締めてあげることすら出来はしない。

それが出来ればどれだけいいか・・・
しかし僕は宗教家ではなく、何処かに寺を構えたり教会の仕事に従事するものでもない。

僕は再三いうが、金の為に小説を書く者でもなければ
自分の生活の向上や世間に広く認められる為に作品を書くものでもない。

同じ、同志といえる人々、読者に向けて書くこと以外、
何の興味も持たない。
君の背負った荷物を少しでも軽く出来るのであれば
僕はそれで小説、文章を書くことの意義を見出すことが出来る。

もしも、真実、どうしようもなく自らの命を絶つか
或いは誰かを殺めることでしか自分自身の崩壊をとめられないところまで
追い詰められたのなら、だから、君は僕を殺せばいい。

もう僕は46歳という年齢になり、三島の享年を超えてしまった。
これまで苦労も数多あったが、好きなことだけをやり
まだ発表は未定だが、これを書き上げたらもう死んでも悔いなし
という作品も立て続けに2本、書き上げた。
だからもう死んでも構わない(とはいえ自死しようとは考えないが・・)。

従い、僕を殺すことで君が生きられるのなら
僕は喜んで君に殺されよう。
まだ書きたいものはあるが、もはや思い残すことはないから
命を落とすことになっても文句はいわない。
もはや人生の大半を生きてきた僕の命、人生と
まだそこに至っていない君の命、人生を天秤に掛けるなら
君の命、人生のほうが大事に決まっている。

繰り返しになるが、君が生きる為に僕を殺すしかないならば
気にせず、殺してくれ給え。
君の役にたてるのならもう、人生の大半を過ごしてきた
僕なぞ殺したって構いやしないんだ。

僕は肉体を失おうとも僕の作品は歴史の中で生き続ける。
生きようとする意思はまだまだあるが、何時、死んでもいい準備は整っている。
矛盾しているように思われるかもしれないが
僕は僕の作品にシンパシーを憶えてくれる同志の為なら
何時でも、命を投げ出せる。

君が僕によって救われたといってくれるように僕は君によって救われたのだから
立場は同じだ。

しかし結論を早急に出す必要はない。
まがい物の絶望で人生を棒に振るな。

君が思っているよりも完全なる絶望は遥か遠くにあるものなのだ。

どれだけ深い悲しみを背負っても人は悲しみでは死ねやしないことを
最後に僕は君に通達しておこう。