NHKのドラマ「足尾からきた女」を繰り返し観る。

足尾銅山から流れて来る鉱毒で麓の村の農作物が育たなくなり
村は結果、国の方針で池にされることが決まり
それに反対する村民達の戦いと
当時の民権運動
(まだ金持ちにしか参政権がなく女性の政治参加などもってのほか
危険思想、そういうことを考えるのは国家の敵、社会運動家であると
活動がばれれば牢につながれた時代である)
をからめたドラマであるのだが
社会主義運動に加担する石川啄木や与謝野晶子ら明星の歌人らも
登場する。

僕はこの時代の作家達が好きだ。
シンパシーを強く感じる。
この時代の作家なんてものは結局はエリートの小倅
(なにせそうでなければ字なんて読めやしないし大学にもいけやしない)
なので、結局は甘ちゃんなのだが
それでも多くの作家は暮らしに困りながら、文学を続けていた。
そしてそれよりも大事なのは彼等は、そのような生活の中で
問題意識を持ち、自由と平等の為に戦っていた。

現代の作家のどれだけが、命を賭して国家権力と戦っているだろう。
貧しいもの、弱きもののと寄り添いその有様に怒りを憶えているだろう。

例えば貧しきもののことを描いたとて
それは現代社会をデッサンしているに過ぎぬのが大半ではなかろうか。
こんな悲惨な生活もあるよ、と、あるあるネタとして読者の心を
掴もうとしているものが殆どではないのか。
真摯に世界を変えようとしている者などいやしないように
僕には思われる。

かくいう僕も国家と戦うなどという姿勢はとってこなかった。
が、僕はマイノリティであるもの
それはロリータであったのだが
と共に世間の偏見と戦ってきたという自負がある。

が、もうロリータの為に戦う時代は終わった。
いつしかロリータは未だ偏見の対象ではあるが
昔程に劣悪な境遇にいない。
「下妻」の映画がヒットし、アニメやラノベで
ロリータの登場人物が当然のように登場する
現在になっては、声高にロリータだって人間だ
キチガイではないと叫ぶ必要がなくなってしまったのだ。

従い、そのようになってからしばし僕は反逆すべき敵を失った。

が、また今、僕は新たなレジスタンス運動にこの身を捧げる機会を得た。
上手くは書けないが、今後に発表される作品を読んでもらえば
それは自ずと解っていただけると思う。
別に政治運動をしようというのではないが
自分達の誇り、偏見にさらされる者達の悲しみの為に
この世界に不毛かもしれぬが戦いを挑む所存だ。

僕は政治的な人間ではないし好きなことしか書けない。
しかし、少なくとも文章を公に発表するということは
醜悪なものを善しとする世界への戦いであると思っている。

足尾銅山事件で戦い抜いた田中正造は
絶命の時、聖書と信玄袋しか所持してしなかったという。
彼は野垂れ死にすることを恐れず
それが自らの政治活動家としての当然の最後であろうと考えていた。

僕も僕なりのやりかたでこの命が続く限り
醜悪なるものに対し反旗を翻し続ける覚悟だ。
正義感がそうさせるのではない。
僕が思い描く芸術家としてのやるべきことを
近代の諸先輩の作家達に倣い、やろうとするだけのことだ。

野ばらちゃんは変わってしまったという人もいるかもしれない。
確かにデビュー当初からすると随分と変わったろう。
でもその変化は、本当の自分を貫く為の変化なのだ。
よく観察してみれば何も変わってはいない。
変わらない為に変化していく。
矛盾した言葉だが、今の僕にはそんな表現が似つかわしいと思う。