本はタブレットになっていずれ、なくなっても仕方ないかも
というようなことを、ツイッターに書いたら、印刷屋さんは皆、失業ですね
とのリプがあったりした。なので
DTPの発達ですでに写植屋さんは全員、廃業になったと
返してみたけど
写植屋さんとかいわれても、みんな解らないよね。

僕がまだ大阪で編集/ライターをしていたころはね
だから10年以上前だけどね
文字は写植屋さんという人達が作っていたんです。

僕等は原稿を書きそれを写植屋さんにだす。
文字の大きさやフォントを指定してね。
そうして写植屋さんが作ってくれた文字を
デザイナーに渡して、デザイナーが版下にそれを貼る
という手順を踏んでいた。

DTPが発達したら、文字を打つ写植という仕事がいらなくなってしまった。
原稿のデータをデザイナーに渡せば、デザイナーがそれを
マックに流し込めばいいだけな訳だから。
写植屋さんがやっていた文字詰めなどの作業も
デザイナーがやってしまう。

でもね、そうやって写植にださない、一つの工程を減らすということは
それでコストダウンをはかれる訳だけども
要は、デザイナーが写植屋さんの役割もしなければいけないということだから
デザイナーに負担がかかることでもあったんです。
更にいえば、一つの工程を省くと、その中でのチェック機能も省かれる
ということだから、いいものを作るためにはよいことだとはいえなかったの。

大阪には伝説の写植屋と呼ばれる皆から、キートンさんと呼ばれてた職人さんがいてね
この人はとても映画好きだった。
で、彼に映画の原稿を渡すと、その原稿の内容
出演者や監督の名前なんかをタイピングミスしていても
間違っている場合、勝手に正確に直して写植をうってくれた。
だから、伝説の写植屋さんと呼ばれてた訳。

こういう人はなかなかいないんだけど
一つの工程を省けば、どこかが必ずいい加減になる。
誰かに皺寄せがいく。
だから僕等は写植の工程が省かれるようになることを
当時、とても警戒したし、なくすべきでないと抗った。
今まで通りにいいものを作りたかったから。
それぞれの分野のプロの手を経由すれば
手間は掛かるけどそれだけいいものが出来るのは当然のことでしょう。

でも僕達が思っているよりも早く、写植は世の中から姿を消した。
写植屋さんはほとんど潰れてしまった。
僕等は短時間、低コストで作ることを優先しなければならなくなってしまった。

今でもね、写植屋さん達が、もう廃業しますと淋しそうに
挨拶にきた時の顔が忘れられない。
思い出すと泣きそうになる。
悔しい気持ちで一杯になる。

まだまだDTPは発展を続ける。
あと、10年もしないうちに印刷物は
まるでプロが作ったかのように
印刷屋さんに頼まなくても、製本なども含め
自宅のプリンターで出来る時代がくるんじゃないかなと思う。
それはとても便利なことだし、いい面もたくさんあるんだけど
ものづくりをずっと続けて来た僕等にとしては
どこかしらやりきれないんだよね。
僕等はいいものを作りたい。
それだけなんだ。
でも、気軽に誰もがものづくりに参加出来るということは
とてもいいことだし
そうすれば商業ラインにのらない人の作品だって
世の中に出すことが出来るってことだから
その進化を否定するのはよくないと思う。

そんなメリットとデメリットの狭間で
今、僕等は悩み続けている。
言語のプロ達が考え抜いて数年に一度しか
改訂出来ない広辞苑のほうがいいのか、
それともアマチュアが参加して日々、改訂されていく
Wikipediaのほうがいいのか
それは誰にも判断が出来ないだろう。

ただ、印刷の話に戻れば
印刷の技術は昔より進歩している筈なのに
たとえば、ミュシャのリトグラフを再現する
だけの技術を現代の印刷は持っていない。
ミュシャの頃は、手間を掛けまくっていたから
現代の大量印刷用の機械ではその精密な印刷が不可能なんだ。

僕としては
高くつこうが手間を掛けて作るものは徹底的に手間を掛けて作り
そんなにディテールにこだわる必要は無いと思う人は
安価でそれなりのものを作るというふうに
二極化がもっと進み、皆にどちらを選ぶのかの選択肢が
与えられるようになればいいと思っている。

だから電子書籍も否定しないし
もっとそのコンテンツを充実させるよう頑張ってもらいたいと思うんだ。
誰でも小説を発表出来て、誰でも展覧会が出来て、誰でも自分の歌を聴かせられる
ことの出来る世界は、きっと、とても素晴らしい筈だから。