こんにちは、暖淡堂です。

 

「菅子四篇」の「心術上」から。

 

原文:世人之所職者精也。去欲則宣、宣則靜矣。靜則精、精則独矣。独則明、明則神矣。神者至貴也。故館不辟除、則貴人不舎焉。故曰、不絜則神不處。

 

書き下し文:世人の職とする所のものは精なり。欲を去ればすなわち宜しく、宜しければすなわち静なり。静なればすなわち精、精なればすなわち独なり。独なればすなわち明、明なれば、すなわち神なり。神は至貴なり。故に館、辟除せざれば、すなわち貴人舎らず。故に曰く、潔ならざればすなわち神處らず、と

 

現代語訳:古来、世の人々が自らの在り方としてきたのは混じり気がないことである。だから欲を取り去れば、その思いはよく人々に行き渡る。思いが行き渡れば、自分は静かに安らいでいることができる。静かに安らいでいれば、余計なものが入りこまない。余計なものが入りこまない状態は孤独である。孤独であればこそ明晰になれ、明晰であれば、それは神に近い状態ともいえる。神とは、それ以上のない尊貴なものである。館をきれいに清めていなければ、貴人はそこを宿とすることはない。だから、潔くなければ、神はそこに留まらない、というのだ。

(「菅子四篇」、「心術上」より)

*下線部は今回の記事作成にあたり、再訳しました

 

昔から、人々は純粋で混じり気のないことが人間の本質であると思ってきました。

(「管子心術」が書かれたのが、今から2000年以上前なので、もう遥かな昔から、ということですね)

 

心の中がごたごたしているのは、外から不純なものが入り込んできているから。

そして、入り込んできたものが、自分の本質的なものを乱してしまっています。

 

外のものが入り込んできている原因は「欲」です。

この欲を取り去ることができれば、余計なものが心の中を満たしてしまうことはありません。

 

自分を含めた人々が皆、この欲を取り去って、心の中を整理することができれば、お互いの思いを理解し合うことができるようになります。

そして、静かに落ち着いて過ごしていられるようになりますね。

 

静かに落ち着いている状態は孤独でもあります。

ただ、孤独であるがゆえに明晰な思考が可能になります。

きれいに清められている宿でなければ、貴い人は宿としません。

同じように、潔い心でなければ、この世の中のすべてのものの存在のあり方を表す「神」と呼ばれているものの一端が見えることもないでしょう。

 

そんなことを「管子心術」の文章は言っています。

 

ニヤリニヤリニヤリニヤリニヤリ

 

上の文章の原文は以下の書籍「菅子四篇」から引用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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こんにちは、暖淡堂です。

 

今回も「菅子四篇」の「心術上」から。

 

原文:過在自用、罪在變化。自用則不虚。不虚則仵於物矣。變化則爲生。爲生則亂矣。

 

書き下し文:過ちは自用するにあり、罪は變化するにあり。自用すればすなわち虚ならず。虚ならざればすなわち物に仵する。變化すればすなわち爲を生ず。爲生ずるはすなわち亂なり。

 

現代語訳:過ちは自分のために動くことにあり、罪は自然のままのものを変えてしまうことにある。自らの好むところで動いてしまうとは、すなわち自分自身が虚ではいられないということである。虚でなければその行動は物事に逆らってしまう。虚の状態から変わってしまうと、爲(いつわり)が生じる。爲が生じてしまうと、乱れる。

(「菅子四篇」、「心術上」より)

 

「菅子四篇」の「心術上」の、ほぼ終わりの部分からの引用です。

国家を運営したり、法を執行したりするものは、自分の好みで行ってはいけない、という話が続いていて、その終盤の部分です。

自分の好みで進めるということは、心の中に好悪の感情があるという状態ですね。

心の中が虚ではありません。

 

そのような状態で国家を運営したり、法を執行したりすると、物事があるべき在り方に逆らった判断をしてしまう。

特定のものだけが得をしたり、別の人たちが大きな負担を負ったりすることになる。

不公平感が世の中に蔓延しかねません。

 

このような好みが反映されてしまった法の執行や政治などでは、どこかに偽りが生じてしまいます。

偽りがあれば、世の中が乱れてしまう。

 

世の中の乱れは、だから法や政治に、それぞれを執り行う人物の好悪を反映させた結果とも言えます。

心を虚にせよ、好悪を基準に判断してはいけない。

「菅子四篇」の言葉は、このように、国のリーダーに語りかけています。

 

政治では、「好み」よりも、「淡々と、あるべき在り方を続けること」の方が大事な気がしています。

選挙で勝つために、無理な対立を作り上げ、個人の嗜好を強調するような言論を政治家がする場面が、もう少し減るといいのではないかなと思ったりします。

 

 

ニヤリニヤリニヤリニヤリニヤリ

 

上の文章の原文は以下の書籍「菅子四篇」から引用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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こんにちは、暖淡堂です。

 

「菅子四篇」からまた一文を紹介します。

「菅子四篇」の「心術上」から。

 

原文:人者、立於強、務於善、未於能、動於故者也。

 

書き下し文:人なるものは、強に立ち、善に務めるも、未だ能わず、故に動くものなり。

 

現代語訳:人々は、励んで自らをたたせ、善いことをなそうと努めるが、それでもまだうまくしとげることができず、それまでやって来たこと、作り上げたものから離れられず堂々巡りしてしまう

(「菅子四篇」、「心術上」より)

 

 

この文章の少し前の部分では、「無為の道」について以下のようなことを言っています。

無為の道とは、因ることである。因るとは、何かを付け加えることなく、また何かを取り去ることもない。形そのものに適った名をつける、これが因の術である。

 

このような「無為の道」が、この世のあるべき姿を実現する「聖人」の行うこと。

この「無為の道」のやり方を信じられず、あれこれと殊更なことをし、無駄な努力を重ね、その結果、本来の天然自然のあり方から離れたものを作り上げてしまう。

そんなことを繰り返すことは、無駄だからやめてしまわないか。

「管子」は、そんな風に言っています。

 

ただ、この無駄なことには、「無駄なお金」などもついてくることがあります。

そのお金で、ちょっとだけ得をする人が、この無駄なことをやめられなくなることもあるのかもしれませんね。

 

そのお金の出所を見失ってもらいたくないな、と、最近はついつい思ってしまいます。

 

 

ニヤリニヤリニヤリニヤリニヤリ

 

上の文章の原文は以下の書籍「菅子四篇」から引用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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