断捨離の原点「捨の心」 やましたひでこの古里「沖ヨガ」
祝 生誕100周年
沖正弘先生 生誕100周年 感謝祭交流会
「捨の心」 沖 正弘
宗教の心とは、捨の心である。捨の心とは求めぬ心である。離れた心である。忘れた心である。気にかけぬ心である。ひっかからない心である。執着せぬ心である。そのまま受け取る心である。
捨の心は強者の心である。捨てたら困りはしないかと計らう弱者に、捨てたら入らなないのではないかと憂うる弱者に、捨てきる、まかせきる行為は不可能である。
絶対への信ある者にして始めて、自由に捨て得るのである。生かされて生きているのだ、与えられて生きているのだの悟りが捨の心を生み出す。生かされる自信のある者は、自由に捨て得るのである。与えられ守られると信じて居る者は自由に捨て得るのである。捨て得る者の胸中には、求めへの悶えはない。与えられざる事への焦りはない。奪われる事への憂いもないのである。唯受け取るだけである。まかせきるだけである。与えられた縁に無常の価値を認めている者の心境は、常に平安である。常に法悦である。一切に総感謝である。日々好日である。
不信なるが故に持つ事にこだわるのである。与えられる事を知らないが故に持つ事を焦るのである。持つ心は奪われはしまいかの不安を生みだす。持つ心は与えられない事への不平を生みだす。持つ心は悪ありとのおそれ心を生みだす。持つ心は他をこばむ心を生みだす。持つ心は他がそれを持つ事を許さない。持つ心の持ち主は常に心乱して他と争はなければならないのである。持つ心は更にこれを持ちつづけたい心になる。この心は、無くなりはしないかの不安で常時おののいているのである。一物を持つ手に他物を持つ事は許されない。何者も持たざる手にのみ、すべてを持つ自由を許されるのである。すべてを受けとる権利を与えられるのである。
捨てた心は何時も空である。空なるが故にすべてがそのまま真実に入ってくるのである。持った心は偏っている。執した心は傾いている。閉ざした心に真実は映じない。偏った心にも真実は映じない。捨の心のみ絶対の自由はあるのだ。条件を捨てている。無条件の心にはすべてが善と映じる。要求を捨てている。無要求の心にはすべてが喜びの対象となるのである。立場を捨てている、無立場の者に対者との争いは生じないのである。捨の心の持ち主は常に平静である。寂の味わいである。一切無畏の生活である。
捨の心は、受け取る心である。生かされて生きてゆこうの絶対信である。捨の心に恩を売る心はない、すべてにおかげを感じているのである。すべてに恩を味わっているのである。すべてに愛を読みとっているのである。
打算を捨てた心には、人生すべてがそのまま遊びである。生活が遊である。仕事が遊である。遊なるが故に何時もたのしいのである。遊なるが故に唯物心に行じているのである。捨の心に好嫌はない、成否はない、唯生きるのみ、唯行じるのみ。
成否を捨てた心に苦しみはない。結果を任せた心に不安はない。唯与えられるままに生きる心に焦りはない。常時不動心である、悠々である、自然である。捨の心は神心をそのまま拝受する心である。捨の心なるが故にすべてに合掌している。任せきって唯努力をしている。この捨の心に、すべては生かされるのである。この捨の生活に神<生命>の花は開くのである。願を捨て心を支配する者はいない、願わない故に誰も縛らない、心は無礙である、捨の心は自由である、捨の心が解脱への門である。捨の心は、何時も豊である、持たざるが故にすべての物が自由に自分の物となってくれるが故に豊なのである。
捨の心は三昧の心である、何事にもひっかからない、何事にもこだわらない、唯仕事に三昧している、唯生活を味わっている。持たざるが故に、すべてのものはそのまま流れてゆく、故に日々生命が生まれでてくるのである、執する時にはすべて死んでしまうのである。捨の心は生きた心である。生かす働きである。
執なき所に、一切は生きるのである。執すると善悪を混同してしまう。執なき時にのみ一切に素直に応じうるのである。捨の心に苦しみはない。与えられるままに受け取ればよいのだ。何物からもつかまえられてはならない。つかむから苦しい、つかまれるから苦しい。逆らうが故に苦しいのである。
捨てるのである。捨てるのである。
捨てきった時のみ真実は入ってくるのである。
『求道実行』<ヨガ研修会発行>より