「思い込み」の証拠品、「期待」の山 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

「思い込み」の証拠品、「期待」の山

ごきげんさまです。

断捨離のやましたひでこです。

 

 

 

 

 

「…はず」という思い込みの証拠品
「…かもしれない」という期待の山

 

 

 
 

 

 

『ウチ、断捨離しました』(BS朝日)

 

今夜7月7日(土)よる7:00~ 放映です!

http://www.bs-asahi.co.jp/danshari/

 

やましたひでこのアドバイスのもと、

悩める家族が断捨離に挑む 様子を追ったドキュメンタリー!

 

 

 


 
奮闘中?、格闘中!

 

 

 

 

 

 

 

「必要?」と尋ねれば、「必要ない!」という答えが戻ってくる。

 

 「使っている?」と問えば、「使っていない!」という答えが返ってくる。

 

 「必要でもないし、使ってもいないのね?」と確認すると、「そうだ!」と言う。

 

 ならばとばかりに、こう聞いてみる。

 

 「じゃあ、捨てるね!」と打診すると、「いや、取って置いて!」と言う。

 

 まったく、訳がわからない…。

 

 と、以上は、私の元に寄せられてくるダンシャリアンたちの愚痴。いえ、愚痴ではなく怒りといってもいいだろう。

 

 モノを「捨てる・捨てない」攻防。

 

 こんなケースは、親を相手に、あるいは夫や妻を相手に、また、子供を相手に、様々なダンシャリアンの家庭で繰り広げられている。

 

 そう、私たちは「必要がない」からと言って、「使わない」からと言って、それが、すぐさま始末するという行為に直結する訳ではないことを心得ておかなくてはならない。

 

 私たちの思考は、どちらかと言えば…といったレベルではなく、確実に「モノを取って置く」という理由探しに費やされる。

 

 いつか使うはず、いつか使えるかもしれない。

 どこで使うはず、どこかで使えるかもしれない。

 誰かが使うはず、誰かが使えるかもしれない。

 

 「はず」という思い込み、「かもしれない」という期待。

 

 私たちのほとんどは、この「思い込み」と「期待」に無意識にコントロールされている。

 

 だとしたら、「不使用、不必要なモノ」を捨てるという発想は出てくる訳がないと考えた方が妥当であり、賢明な策。特に、断捨離を知らない人に向かい合うならば。

 

 この場合、

 

 「いつかって、いつ?」

 「どこかって、どこ?」

 「誰かって、誰?」

 

 と、攻め込んでも無駄。それこそ、エネルギーが消耗するだけのこと。なぜなら、こんな答えが返ってくるだけだから。

 

 「だって、孫でも生まれて、その子が学校に上がったら使うはずだから」と。

 

 実はこれ、パラサイト・シングルで四十を超えた息子の、誕生すら定かでない孫の将来の必要性を考えて、息子が使った学用品の数々を小さな納戸に詰め込んでいる母親に辟易しているダンシャリアン娘からの報告。

 

 もしも、それが着物のような類のシロモノであったとしたら、代々受け継がれていくことは美談。それらが収まった大きな箪笥が、狭い住まいの日常の生活空間をどんなに圧迫していたとしても、この美談には太刀打ちできはしない。

 

 そして、モノを手元にとどめおく、そして決して捨てようとしない極め付けの思い込みと期待はこれ。

 

 何かに使えるはず。何かに使えるかもしれない。

 

 それは、不必要どころか、不使用どころか、壊れてしまったモノに対してでも有効な思考。

 

 「だって、直せば、なんとか使えるし」

 「だって、直らなくても、この部品は間に合うかもしれないし」

 

 といった具合に。

 

けれど、それは直すことなく放置され、その部品が間に合う機会が何万分の一の確率であるかは考慮されることなく、モノは家の中のあらゆる場所に静かに堆積し続けるのです。

 

 

<yahoo!ニュースJapan やましたひでこ>

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamashitahideko/