“カミングアウト”〜さっさと断捨離すべき、残念な意識
誰かを好きになること。それはとても自然なことで、その好きになった相手と人生を共にしたいと思い願うのも自然なこと。
だから、結婚というカタチがある(ただし、ここでいう「結婚のカタチ」とは法的な手続きを意味しない)。しかも、できる限りそのカタチを大勢の人に認めてもらい祝福を受けたいと願うからこそ、結婚式というセレモニーで披露するのだろう。
そして、そのセレモニーを、私たちは決して“カミングアウト”と呼んだりはしない。
とても名の知れた女性経済評論家が、同性との交際と同棲を公表した。その事実を、メディアは何故だか “カミングアウト”と呼び、おかしなことにそう報道する。
“カミングアウト”<coming out>とは、これまで公にしていなかった自らの出生や病状、性的指向等を表明すること。(Wikipediaより)
つまり、本来ならばいっぱいの祝福を受けたいと願うはずの事実を公にしない理由はどこにあるかと問えば、やはり周囲の誤解を恐れるということに尽きるはず。
繰り返しておこう。誰かを好きになることも、その人と共に暮らし生きたいと願うことも自然なこと。その誰が、同性であろうと、年齢がかけ離れていようと、法的に既婚であろうと、そんなことはおかまいなく、「好き」も「同棲」も自然に起きることだということを、私たちは覚えておいたほうがいい。
だから、この経済評論家女史の一件を、そもそも“カミングアウト”と形容することの方が訝しい。そう、この女史は、ただ自分にとって大切な存在がいることを知って欲しかっただけのことと理解すべき。
とはいえ、まだまだマイナーなこの結婚のカタチを公にするということは、少なからずセンセーショナルな反応が起きることだというのは容易に想定しうること。それは、この評論家女史のように世間に名前が知られていればなおのこと。
だとすると、この評論家女史、敢えてセンセーショナルな注目を起こし、また覚悟してまで、自身の結婚を披露して多くの人に祝ってほしいという願望の方が勝ったのか。一方でまた、センセーショナルな反応から自分の大切な存在を守ろうとする気持ちはなかったのか。私としては、個人的にそちらの方に興味が湧くことを白状しなくてはならない。
けれど、いずれにしろ、それは当事者個人の自由な結婚指向であって、他者がとやかく言うことではないことだけは確か。実際は、この私がこんな記事を綴っていることもまったくの余計なお世話。だからこそ、この評論家女史の結婚のカタチに“カミングアウト”などという言葉がついて回ること自体が残念でならない。
さて、ここまで読んで下さった読者のあなたならば、この事実もよくよく承知しておられるだろう。
誰かを好きになることが自然であるならば、それと同じように、人を嫌いになることも自然なこと。そして、嫌いになった人とは離れたくなるのも自然なこと。でなければ、この世に離婚など存在するはずもない。
ならば、将来もしも(あくまでも「もしも」という私の勝手な仮定ではあるのだけれど)、この評論家女史の結婚のカタチにヒビが入ることになったならば、彼女はどんな行為を選択するのだろう。
密かに?
公に?
そしてまた、メディアはどんな言葉を以って報道するのだろう。
いずれにしろ、“カミングアウト”などという認識こそ、結婚にせよ、離婚にせよ、また、密かにせよ、公にせよ、さっさと断捨離すべき意識であると言いたくなる私であることは間違いないですね。
<yahoo!ニュース JAPAN やましたひでこ 2019/06/09>