隠れ、隠した、その結果。 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

隠れ、隠した、その結果。

 多くの人々の注目を集める世界、羨望の的となる華やかな業界、そんな舞台に長い間身を置いていたにもかかわらず、私生活での不祥事が露見して、その場からの退出を余儀なくされる。芸能界の人気者、政治や行政に関わる者たちがニュース画面を騒がしくしているこのところ。

 

 「表で見える姿、表に見せない姿」と「裏で隠れた姿、裏に隠した姿」。それら、二つの姿を併せ持つのが人間の本性、当たり前のことのように思うのだけれど、それが許されない人たちがいることは確か。そう、個人の私生活の不祥事であるならば、それに関わる当事者間での解決で済むことなのに。

 

 けれど、許されないのか、許してはならないのか、許すべきではないのか、「許す・許さない」の「主体」がいったいどこにあるのか、あるいは、その「主体」にいったいどれだけの権利や資格や意図があるのか、問うことはしないのが世間であり、マスコミだということなのだろう。

 

 とは言っても、私の興味はそこにあるのではなく、注目される立場やポジションにあった人が、退出、撤退、引退を余儀なくされた後、どうやって生活を維持し人生を歩んでいくのだろうかということの方にある。多くの場合、いわゆる「転落」という形容がなされることになるはず。今までの生活と人生、これからの生活と人生、その激しい格差に直面し塗れながら歩むことの困難はいかばかりか。

 

 しかしながら、これもあくまでも興味でしかなく、当事者でもない第三者の自分が少しばかり気にしただけのことにすぎない話だと心得えておかないといけない。つまり、かくいう私も権利や資格の意図が定かではない「世間」の構成要素であることは免れないという事実。その人の人生に責任がないのであれば、無責任な立場の者としての洗練された振る舞い方があると思いたい。要するに、無意味な批判や無用なバッシングには加担することなくありたいと願うばかり。

 

 さて、以上が長い前書きで恐縮ではあるけれど、今日の本題はこれ。

 

 表で見える姿、表に見せない姿

 裏で隠れた姿、裏に隠した姿

 

 私は、クライアントさんの「裏で隠れた姿、裏に隠した姿」を目の当たりにする仕事をしている身。仕事現場である家の中は、表からは見えず、表には見せない領域。しかも、その隠れ隠したゾーンの中でも、さらに、隠蔽度が高い押し入れ、クローゼット、納戸をもっぱら扱うことになる。要するに、断捨離とは、表にでない私生活の中のもっと謎めいた私生活が必然的に解き明かされていく過程を否が応でも踏まなくてはならないもの。

 

 モノが押し込まれた見えない収納空間は、本人さえも無自覚な「思考の癖」に基づいた「行動パターン」の結果が展開した空間であり、また、心の奥底にしまい込んだ、わだかまった心情の巣窟でもあるのです。

 

 だから、ほとんどのクライアントが恥ずかしさをこらえての開示であり、勇気をふり絞った断捨離指南の依頼。いわば、ここまでしなくてはならないほど、家の中には大量のモノたちがひしめいており、心身ともにSOSを発している、切羽詰まった状態であるのです。

 

 けれど、本人の必死のSOSを同じ空間を共にする家族が阻止することがある。

「お前、こんな有様の家に人を呼んで片づけを頼もうとするなんて、いったいどんなつもりでいるんだ。それは汚い下着を人に見せるのと同じことだぞ!」

 

 これは、私にレスキューを求めてきたクライアントの夫の反対の言葉。この夫の、断捨離を片づけだとみなしている浅薄な理解、片づけの代行業務と思い込んでいる思慮不足に大いに意義を唱えたいところだけれど、それはともかくとして、この妻は泣く泣く夫の反対に従うことになった。

 

 ならば、私はこの夫に言いたい。現在の自分の家の有様が「汚れた下着」同然との認識でいるのならば、直ちにその汚れた下着をクリーニングする手立てを講じて欲しい。毎日、家のクリーニングをしてきたあなたの妻は、今まさに、山となった汚れたモノの崩落現場で遭難しているも同じ。すぐさま救助の手を!

 

 もはや「見られて恥ずかしい、見られたら困る」というレベルの問題ではないのです。その現状認識の甘さが、妻だけでなく夫自身にも「汚い下着を身につけたまま」=「汚い住まいの暮らし」を、これからもずっと続けなくてはならなくさせるのです。そして、それをひた隠しにすることにエネルギーを費やし、エネルギーを消耗させていかなくてはならないのです。

 

 今、槍玉に挙げられているジャニーズ系人気グループの一員も、もっと早く開示をし、その時に適切な処置をしていたならば、このような大きな代償を払わずに済んだのかもしれないし、難儀な人生を歩むことにはならずに済んだに違いない。

 

 繰り返しておこうか。「表で見える姿、表に見せない姿」と「裏で隠れた姿、裏に隠した姿」に乖離や齟齬があるのは当たり前、裏も面も全て精悍で精錬とはいかないのが私たち人間。それがまた、人間が愛しい存在である理由。けれど、その乖離や齟齬も程度問題。あまりに激しいと、あまりに隠し続けると、自分が苦しいだけであると知っておくべきなのです。

 

 

<yahoo!ニュース Japan やましたひでこ>

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