旅先にて。
一年でいちばん爽やかな季節。
さてさて、戸外がこんなにも爽やかであるならば、室内もそれに負けず劣らず爽やかにしつらえたいと思い感じるのは、私だけでないことを願いつつ、以下の記事を。
先日の講演会場でのこと。ひとしきり、私の話に熱心に耳を傾けて下さっていた年配の婦人から、最後にこんな質問を頂戴した。
「今、必要のないモノを始末していく意味と効用はよくよく理解できた。けれど、必要がないモノを捨てた結果、もしも、将来それが必要になった時、また手に入れるためにはお金が必要となる。そのお金を支払うことは無駄で余計な出費とは言えないか。それについて、やました先生のお考えを是非聞かせて欲しい」
なるほど、もっともな質問だと私は感心するばかり。そして、今まで、それこそ数え切れないほど受けた質問「もしも捨ててしまったら、それがまた必要になった時、困ることはありませんか?」という未来の不確定な不安要素に焦点を合わせたのとは一線を画する姿勢であることは、すぐに感じ取れた。
多くの場合、「もしも今、捨てたら」=「いつか、困るかもしれない」=「だから不安」という意識が先行しての質問(というより不安の訴え)だけれど、この年配女性のそれは明らかに違った。彼女はちゃんと思考して計算しているのだ。今必要のなくなったモノを捨てることに戸惑っている訳では、決してない。
それが将来必要となれば、また手に入れることはやぶさかでないという意思がある。けれど、その時に発生する金銭的なコストについて思考を巡らせているのだ。
確かに、また同じモノが必要になった時、金銭的な出費を強いられることになる。それは無駄な出費、余計なコストであることも否定はできない。
けれど、どうだろう。コストとは、金銭的なことに限ったことではないことを私たちは理解する必要がある。
今現在、必要がなくなったモノたちを手元に留めておくことによって発生するコストには、いくつかの種類があること知っておかなくてはならない。また、それら幾つかのコストの総計が、将来それを再び手に入れることにかかる金銭的コストを、どれだけ上回るかも算段する必要がある。
つまりこういうことだ。モノとは、それが必要なモノであれ、必要でなくなったモノであれ、そのモノがある限り、維持管理のコストが常にセットで存在するということ。
それらモノたちは、空間を占拠し、手間(エネルギー)をかけさせ、その手間にかかる時間までも、私たちに支払いを迫るものであるという事実。空間とエネルギーと時間の支払いの総計は、また手に入れる時に支払う金額をはるかに凌ぐことになりはしないか。でも、私たちの多くはそれに気づこうとはしない。たとえ気づいても、すぐさま断捨離に取り組む人はとても少ない。
要するに私たちは、すでに無用となったモノが将来必要になった時、支払うことなる無駄なお金、余計な行為については意識を向けることができたとしても、それらを留め置おくことで発生する維持管理のコストについて思考することは甚だ苦手であると言っていいだろう。
けれど、それ以上に、私が無駄で余計な支払いコストだとみなすのは、これ。それらを留め置き溜め込むことで発生するとても残念なコストは、これ。
それらを目の前にして、散らかりにイライラを募らせること。片づかないと悩むこと。部屋が狭いと嘆くこと。時間をモノに取られて振り回されること。そして、エネルギーを消耗して疲れを溜めてしまうこと。いえ、さらに、空間を閉塞させ自分を息苦しくさせ、気持ちを鬱屈させてしまうこともある。
さあて、再び手に入れるために支払う金銭的なコストと、それを回避するために費やすことになるコストとのバランスは?
私がそこまで申し上げると、賢明な彼女はすぐさまこう言った。
「ああ、感情コストですね!」
はい、その通り! 不必要なモノたち、余計なモノたちを抱え込むことで、私たちがどれだけ気持ちを萎えさせ、感情を詰まらせていることか。
それを慮(おもんぱか)るとするならば、再び手に入れることに費やす金銭的なコストとの比較など、そもそも計算することさえ無用だと気づくはずですね。
さあ、直ちに、余計なモノを断捨離して心を洗おう!
さあ、身も心も、どこまでも爽やかにしていこう!
<yahoo!ニュース やましたひでこ>

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