情報溢れ、即ち、モノ溢れ | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

情報溢れ、即ち、モノ溢れ

 テレビは見ない、ラジオも聴かない、そんな毎日。脱テレビ、脱ラジオ、つまり「テレビ&ラジオの断捨離!」、なんて格好をつけたものではなく、その代わりに、パソコン、スマートフォンが侵入してきているだけのこと。

 

 受信の媒体が変わっただけで、相変わらず情報に対して受け身であることには変わりがない。思うに、垂れ流される情報、溢れる情報の海に漂う自分を振り返られるのはマシな方で、大抵はそれに塗れながら溺れているのが実情。おそらく私自身も偉そうなことは言えず、同じ穴のムジナ、いえ、羊の群の一人と言っていいだろう。

 

 さてさて、情報格差を憂い、云々するのが今回の記事の目的ではなく、情報が大きなボリュームになるに従って、私たちの生活空間に入り込んでくるモノたちも増大してきたのだとつくづくと思うこの頃。

 

 つまり、今現在、自分の身の回りにあるモノたちは、自分が取り込んだ情報の結果の産物、いわばカタチのない情報がカタチとなったのがモノであるということ。

 

 健康情報をゲットすれば、それに伴いサプリメントの瓶が増え、美容情報をゲットすればクリーム類や機器が増え…といった具合。

 

 情報というのは鮮度が命。もしも、その情報が「知恵」というべきものであるならば、鮮度は問題にならないだろう。けれど残念ながら、情報や知識が「知恵」に昇華するのは、それら情報知識を自身がよくよく咀嚼して消化吸収自己化して、行動とともに内面に落とし込むことができてこそ。そして、落とし込まれた知恵は、その時々に見事なばかりに湧き出てくるので、決して抱え込む類のものではないのです。

 

 つまり、鮮度の落ちた情報が意味をなさなくなったのであれば、それらかつて情報に基づいて身の回りに入り込んできたモノたち、身の回りに招き入れたモノたちも、もはや意味をなさなくなっているはず。

 

 実際、それら鮮度の落ちた代物には食指が動かなくなっているだろう。食べ残した健康サプリメントもあるし、使う気にならない栄養クリームなどなど、新しいモノに取って代わられたにもかかわらず、気づくと「同居」している場面にどれだけ遭遇したかしれない。

 

 モノは、取り込んだ情報の産物であるのだけれど、やはり、カタチがあることに変わりがない。カタチがない情報は消え失せてくれるけれど、モノはそういかない。しかも、カタチがあるばかりに、それらに固着する心はどうしても湧いてくる。だから、意味をなさなくなった無用のモノがいつまでも堆積することになるのです。

 

 だからこそ、「すぐに無用な長物」と成り果てるモノを私たちに送り込んでくる元凶である情報と自分との関係を明らかにしておかなくてはいけない。溢れかえるモノたちが私たちの生活環境の悪化を招くように、溢れかえる情報は、私たちの精神を振り回すことも心しておかなくてはいけない。

 

 情報とは、正しい情報もあれば、誤った正しくない情報もある。また、正しい情報であっても、その使い方<時・場・人>を誤れば、機能しないどころか、害を引き起こすことになる。さらに、優先順位を違えれば、何の効果もなさず、徒労感溢れる虚しい結果しか出ない。そして最も厄介なことは、正しい情報、誤った情報、つまり情報を掴む入り口で、その識別する手立てが私たちにはないということ。

 

 情報溢れ、即ち、モノ溢れ

 誤情報、即ち、無用物

 

 情報とモノの洪水の中を泳ぎながら、生活を営み人生を歩いている私たち。ならば、せめても、鮮度を失い無用の長物と成り果てたモノたちに、すみやかに「引導を渡す」ことこそが賢明な方策。そう、断捨離はそのための、生きる行動哲学であることをお忘れなく。

 

<Yahoo!ニュース Japan やましたひでこ>

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamashitahideko/