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情報の断捨離

 小洒落たカフェで友人たちとお茶を愉しんでいた時のこと。突然、長い自撮り棒を持った若い女性三人がドヤドヤと入店してきて、私たちのくつろぎタイムは敢え無く破られることになる。

 

 この闖入女性たち、二階建ての吹き抜け空間の店内をくまなく歩き回り、ようやく席に着いたかと思うと、今度は運ばれてきたスイーツを撮影。そして、入店してきた時そのままに、またドヤドヤと店を出て行った。その間10分ほど。結局、その美味しそうなカフェ自慢の一品は彼女たちの口に運ばれることはなかった。

 

 実はこの場面、過日タイのチェンマイに滞在中の出来事。日本人観光客がチェンマイの代官山と呼び好んで訪れる人気の街で、当然ながら中国や韓国の観光客もいっぱい。実際、自撮り棒闖入者は韓国の女性たちのようで、穏やかな国民性のタイ人スタッフは彼女たちを制することなく、私たち同様、呆気に取られて見ているだけだった。

 

 この光景を眺めながら、私は遠い昔々の出来事を思い出していた。それは携帯電話なるものが登場したての頃、その当時、携帯電話を持つ身分(?)の人はまだ稀な存在で、まるでそれがステータスでもあったよう。カウンター席だけの小さな粋な割烹で中小企業の社長と思しき一人客の男性が大きな声で携帯電話の相手先の部下を叱責していた。携帯電話のマナーが云々されるずっと以前のこと、割烹の女将も、居合わせた私と夫も、食事場面でのこの有様に違和感を感じつつも何の注意喚起を思いつかぬまま、ただ黙って食事を続けていた。

 

 今さら携帯電話のマナーをとやかく言うつもりなどない。それよりも何よりも、誰もが情報の発信側になれる時代であることに、つまり一方的な情報の受け手側でしかなかった私たちも、いとも簡単に発信側に回れる有難い時代になったのだと、これも今さらながら感じている次第。なぜなら、通話機能だけだった携帯電話が登場したあの頃との「隔世の感」さえも、久しぶりに味わう感覚だったから。

 

 ところで、情報の発信側となることができた私たちは、同時に情報の受け手であることからは相変わらず免れはしない。冒頭の自撮り棒を握りしめた女性たちも、スイーツの画像をライブ発信しながら、それに寄せられるコメントに必死になって対応していた。なるほど、そうならばスイーツを口にするヒマなどないのも当たり前のこと。自身の発信の受信者たちの反応を途切らすことなく受けてこそ、彼女たちの振る舞いが収入に結びつく。

 

 そう、実を言えば私自身も、Yahoo!ニュースを書き、メルマガを書き、ブログを書き、本を書くという発信者の立場を頻繁に取っている。そして、テレビも見ず、ラジオも聞かず、ニュースの受信を少なからず断っているつもりではいても、iPhoneが勝手に選んで画面に上げてくるニュースは否が応でも目にすることになる。中でも、毎日2回発信しているブログのマイページに、興味関心もない芸能人の行動がトピックとして必ず上がってくるのには辟易することがある。

 

 何某芸能人がどこで何を食べようが、子供の入学式に出席しようが、家族揃ってディズニーランドに出かけようが、ご自由なことではあるけれど、それがいっぱしのニュースとなってポップアップしてくる、要するに余計なゴミ・ガラクタ情報を受信している毎日。

 

 どうでもいいモノたちが、しょうもないモノたちが、私たちの住まいの空間を占拠していくように、どうでもいい情報が、しょうもない情報が、私たちの頭と心を占領していく今。そして、その実態の被害者役と加担者役を同時に演じる私たち。

 

 さあ、ここで自戒をしなくてならない。毎日毎日、私やましたひでこが発信している情報もゴミ・ガラクタの類ではないだろうかと。少しでも人様のお役に立てば、などと思っていることこそ思いあがりのそれでしかないのかもしれない。情報の断捨離、これがまさに、いよいよもって必須な行為であることを私自身が何より痛感する次第にて。