溢れるモノと溜まるモノの意味。
ごきげんさまです。
断捨離のやましたひでこです。
夕暮れ前。
点と線、そして面、さらに、立体という空間。
さて、冒頭からこんな言葉を並べて、いったいどんな訳があるのかないのか、訝しく思われるかも知れない。でも、これも断捨離と大いに関係があるので。
言うまでもなく、私たちは三次元に身を置く存在であるから、立体である住空間で、立体であるモノと共に生活を営んでいる。けれど私たちは、空間の容量の限度もモノの量も、把握することがどうにも得意ではないようだ。
でなければ、このように床にモノを重ね置き、また押入れに突っ込み、大量に溜め込んでいるにもかかわらず、それに気づかず、それほどの量でもないと思っている訳などないはずだから。
けれど、今回の記事で書きたかったことはそれではなく、夫婦の問題、結婚生活の点と線と面と立体について。
限られた空間を高い密度で共有することを強いられる結婚生活。しかも、それは建前上、夫か妻どちらか一方がこの世を去るまで続けることを求められる。よくよく考えてみれば、これは大変な事業、いえ、よくよく考えるまでもなく、この大変な事業を、私たちは、しなければならない当たり前の事業だと思い、また、思わされているフシがある。だからなのか、そこから外れると、どこか一人前ではないように見做され、また、離婚がまるで汚点であるかのように、バッテンでそれを表現することになるのだ。
そして、この残念な思い込み、この不幸な勘違いが引き起こすことはこれ。
結婚と結婚生活の違いをまったく知らないまま、結婚という「点」に焦点を合わすこと。つまり、結婚式の高揚感など、ほんのいっときの「点」で味わうものでしかないにもかかわらず、そこから結婚生活という時間の「線」が始まることに考えは及びもしない。もっとも、そんなことを考えてばかりいるのも、なんだか味気なく侘しいことも確か。これから始まる新人生に計算ばかりを持ち込むのも不幸なこと。第一、ここで諸々を見失わない限り、結婚にふん切りがつくはずもない。
やがて、短いか長いかはともかく、それぞれの蜜月期を過ぎて、妻と夫は「面」で、つまり、リビングの床という水平面を舞台に縄張り争い、主導権争いを展開するようになる。主婦業に勤しむ妻、家事を担う妻にとっては、この家全部が自分の縄張りとどこかで思ってしまうのは自然の成り行き。そんな妻にはやがて、リビングに放置されたままの夫の所有物がどうにも邪魔に見えてくる。
その邪魔に映るモノたちは、すなわち「侵入物=侵入者=夫」という図式。妻は苛立ちを覚えるようになり、それに改善が見られないとなると、事態は「侵略物=侵略者=夫」という、苛立ちを超えた抜き差しならぬ憎悪へと進行していく。
けれど、それが派手な喧嘩となるならば、まだ救いようがある。なぜなら、それも心の澱(おり)を発散して出すことでもあるのだから。厄介なのは、互いがじっとダンマリを決め込んで表面上の結婚のメンツを保とうすることであり、家庭内には毒素を孕んだあきらめの空気が漂うことになる。
こうなると、モノは「立体」で増殖していく。そう、どこもかしこも、普段あまり目にしない所にモノが堆積していく。なぜなら、私たちはやり場のない気持ちをモノに代弁させるから。
モノ溢れ=愚痴の吹き出し
モノ溜まり=不平不満の蓄積
モノ詰まり=あきらめの固定化
「モノが自分の有様を映し出し、空間が今の自分を物語る」
だからこそ、こんな相似象である実態を炙り出してこそ物事は巡り出すのだ。
モノ溢れの断捨離=愚痴の断捨離
モノ溜まりの断捨離=不平不満の断捨離
モノ詰まりの断捨離=あきらめの断捨離
行動と思考・感情は実は両輪。行動を起こせば、もう片方の輪も必ず動き出す場面に、私はどれだけ立ち会ってきたか知れない。
<yahoo!ニュース ジャパン やましたひでこ>