2018<新>断捨離元年。やましたひでこの「これだけは言っておきたい」こと
この年末年始には、やたらと「断捨離」という言葉が飛び交う。
いえ、そう思い感じるのは、私やましたひでこが「断捨離」の提唱者であり、言うまでもなく、私の最大関心事が「断捨離」であるからで、当然のことながら、私がもっぱらフィールドとしているブログやSNS等、ウェブ上で目にする頻度が非常に高くなることになる。つまり、アンテナを立てれば、自ずと、そこで情報をキャッチする機会は飛躍的に増えるということだ。
それにしても、この「断捨離」の言葉の一人歩きには、提唱者の私も驚かされるばかり。
いえ、驚いているというのは正確な表現ではない。「断捨離」には高い言語的価値があることを当初から確信していたので、当然といえば当然なのだ。だだ、なんら想定することもなく、私が断捨離を、孤軍奮闘、懸命に伝え説いていた時代とは雲泥の差があるという事実を、あらためて噛みしめているだけのこと。
高い言語的価値。つまり、強い響きと革新性を持つ、すなわち、高いメッセージ性をはらんだ「断捨離」が、まるで一つの生き物のようにエネルギーを発しているのは間違いないことで、そのエネルギー補給を受けた人たちが、それぞれに断捨離を語り出すのは自然の成り行きとも思える。
ところがだ、これは、言葉の持つ宿命のようなもので、どんな言葉であれ、それを理解している程度までしか、やはり語り得ないという残念な事実が横たわる。だから、私から見れば、残念な理解で留まっている断捨離もあれば、それこそ私の方が、その深い理解に畏れ入る時もある。
仮に、断捨離を「片づけ」とだけ理解したならば、断捨離は「片づけ」としか語られることはない。確かに私は、対症療法に終始している「収納術」へのアンチテーゼとして、片づけの根本療法として「断捨離」を紹介したけれど、それは断捨離の入り口の扉を開けるための方便でしかなかった。
もしも、断捨離を「捨てる」と理解したならば、断捨離は「捨てる」「捨てない」の対立の構図を招くことになる。つまり、「捨てない」という選択も断捨離にあることに気づいている人は少ない、ということだ。「なんでも容赦なく捨てる」という底の浅い理解は、最小限主義を標榜する一部のミニマリストと断捨離の混同で、残念ながらおしまいとなる。
「引き算」という新たな視点をもたらす、一つの概念として断捨離を理解したならば、断捨離は「足すこと」「増やすこと」に否定的であるという偏った見解に陥る。けれど、決してそうではない。断捨離は必要性を見極めるプロセスであって、「過剰」にまみれた結果、本当に必要なものが「不足」していないかを検証する、本質に立ち返る作業に他ならない。だから、足すことも増やすこともある。
そして何より、断捨離を、その時その場、つまり生活空間と生活時間と自分自身<その時その場を共にする人間全て>とに調和をもたらす、卓越した行動哲学、実践哲学だと理解したならば、断捨離は、自分の人生に思いもよらない変化が流れ込むメソッドとして機能することになる。
もちろん、その「思いもよらない変化」とは、自分の想定外のことであるのだから、いわゆる「自分が望んでいない変化」がやってくることも少なからずある。そのことは心しておいた方がいい。
なぜなら、「調和」とは、固定したものではないから。
なぜなら、「調和」とは、崩れていくものだから。
なぜなら、「調和」とは、破壊と新生を繰り返していくものだから。
実際、断捨離とは刹那でしかない。刹那的な調和、すなわち、刻一刻と変化する調和を飽くことなく追求していく、地道で地味な行為の繰り返しであることを知っておく必要がある
。
時間的にも空間的にも「点」でしかない「調和」を、連続した点線<時間>、面いっぱいの点<空間>にしていくのが断捨離。そして、この調和とは、言い換えるならば、それぞれの、その時の幸福感であったり、その場の爽快感であったり、と理解していただければ幸いにて。
さてさて、要するに、断捨離の「言いだしっぺ」である私やましたひでこが、新たな断捨離元年と位置付けている2018年念頭に言いたいことはこれ。
断捨離をどうカスタマイズしようが、それぞれの勝手ではあるけれど、そのカスタマイズが、まるで断捨離の全貌であるかような一人合点の理解、一人よがりの発信だけは勘弁してほしいということ。
そう、断捨離には終わりがなく、深化と発展があるのだから。
<yahoo!ニュース JAPAN やましたひでこ>
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamashitahideko/20180106-00080149/