過剰を強いること、過剰を強いられること。 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

過剰を強いること、過剰を強いられること。

 

 
 
 
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過剰と不足

 

激しい落差の国にて。

 

 

 

 

 

 

 

食事を子供に与えない。

これは、立派なネグレクトという虐待行為。

ところが、こんな姿を変えた虐待もある。もちろん、当事者はこれを虐待とは夢にも思ってはいない。それどころか、立派な教育的指導だと思っていることがほとんど。

さて、過日、綴ったブログ記事の一部をご紹介させていただこうか。

早く食べなさい。

もっと食べなさい。

残さず食べなさい。

こんな食事のあり方を子供たちに施すのは、こんな給食や食育は、もう、断捨離しなくては、と。

しっかりとよく噛んで、

ゆっくりとよく味わって、

はい、もう、十分です。

そんな食事のあり方にしたい。

そうすれば、

食事は美味しい

食事は楽しい

ご馳走さまの言葉が自然と口をついて出るに違いなく。

中国の食事は、大勢で囲み分け合う、

美味しくて、楽しくて、いっぱい、たくさんのスタイル。

そして、残すことは許される。

食べきれないことには、とっても寛容。

それでも、このいっぱい、このたくさんが、少し断捨離できたらね、もっと豊かな食事になると思うのです。

~「早く、もっと、ぜんぶ」の断捨離

出典:やましたひでこオフィシャルブログ

 この記事は、上海で中国の人たちと食卓を囲んだ時の気持ちを元に書いたもの。幾度も訪れている中国でそのたびに感じる、中国の食卓風景のゆったりとしたおおらかさ。美味しい料理をどこまでも楽しんでいる姿は、日本の食卓ではあまりお目にかかることはない。

 身体に悪いという危惧とも無縁。太るという感覚とも無縁。とにかく美味しい、とにかく楽しいが第一番で、丸ごと食べ尽くそうとする。そして、食べたい人は食べたいだけ食べ、食べきれない人は食べないでまったく構わない。大皿からそれぞれ自分にあった量を選べばいいのだから。

 そして、この私の記事に、読者の方からこんなコメントが寄せられた。

~~~~~~~~~~

私の子供は食が細く、空気で生きていけるかのよう。

無理に飲み込むと体が拒否して吐いてしまう子でした。

食べられないけれど食事への感謝はとても知っている子なのに、食育という美しい神話の陰で、小学校の5年間、お昼休みのない、友達も出来ない毎日を送りました。

6年の担任の先生が初めて「みんなの食べれる量は違うから、自分が食べれるだけでいいよ」と言ってくれ、それから性格まで見違えるように明るくなりました。

自ら苦手にもチャレンジするようになりました。食べれるモノも量も増えました。

食育が、本当に

「食事は美味しい」

「食事は楽しい」

へとシフトすることを心から願っています。

~~~~~~~~~~

 私は驚いた。こんな苦痛が小さな子供に5年もの間、学校給食の場で強いられていたとは。思わず「食の無自覚の虐待?拷問?」とコメントを返すと、「まさに…、その言葉がピッタリな日々でした。」との返事が。

 食事を与えないというネグレクトとなんら変わらない事態が、もしも、未だに学校給食の場で今もって行われているとしたら。

「不足」を強いることと「過剰」を強いることが、まったく同じ悪質行為であることを理解できない者が、もしも、未だに教育現場を今もって担っているとしたら。

 暗たんたる気持ちになるのは、私だけではないはずです。

 

 

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