あれ? これって、いじましい自分へのささやかな抵抗かもしれませんが……。
食べ放題。
見たい放題。
詰め放題。
ひと昔の前の私ならば、こんな魅力的なキャッチコピーに心を弾ませていたかもしれない。お料理がふんだんに並ぶバイキング会場、どんな番組も視聴できるメディア環境、そして、野菜が山と積まれたスーパーの生鮮品食料品売り場。
ところが、こんな状況下にあると、おそらく、偉そうにも「断捨離」を提唱しているこの私の本性を、残念ながらいとも簡単に露呈してしまうかも知れない。そう、「いじましい」という隠れた自分が。
いじましい。
もちろん、他人に自分のいじましい部分を見られたくはないけれど、それ以上に、自分で自分のいじましさを認めるのはしんどいという気持ちの方が勝る。
なぜなら、ビュッフェで食べ過ぎて自分を苦しくし、さして観たくもない番組プログラムに時間を費やし、必要以上の野菜を手に入れても、結局は冷蔵庫の中で傷ませるだけ……という間抜けな自分の不始末に付き合うことも、もう御免にしたのだから。
とはいえ、「~放題」というのは、今もって魅力的に響くことは確か。それはまるで、自分が幾ばくかの金銭と引き換えに、何がしかの自由を手に入れたような気持ちになるからなのですね。
けれど、これで得たと思しき自由は、時間という制限、空間という制限が付きものであることには、なかなか気づきにくいもの。
90分という制限時間内で追われるように食べ物を掻き込み、1ヶ月期間限定の最後の3日間でまとめ視聴をし、指定された袋に一つでも多くと必死に詰め込む有様は、自由な境地での選択をしているとは全く言えないはず。
かりそめの期間限定の自由、実は、制限いっぱいの錯覚の自由。このカラクリに気づくのもかなりきついこと。しかも、自分の心の奥に押し込め潜めていたはずの「いじましさ」とも向き合わなくてはならない。元を取ろう、少しでも得をしようという思いが、本来の目的、美味しい料理を思いっきり堪能しよう、面白い番組を思いっきり満喫しよう、食材を思いっきり活かそうという、大事な目的から自分を遠ざける。
そうか、私たちには、「思いっきり」への強い訴求があるのですね。あるいは、
「選り取り見取り」という立場にも。
ところが、多くの選択肢を得ることは、かえって自分を損なうことも知っておかなくてはならないよう。なぜなら、いっぱいの中から一つを選ぶことほど、選択・決断が難しくなることはないだろうから。選択肢が多くなるにしたがって迷うことも多くなるのだから。
胃袋には限界がある。たくさん居並ぶ料理からベストなチョイスをすること。余暇時間も限度がある。膨大な番組プログラムからベストに絞り込んでいくこと。あるいは、与えられた袋や容器に見合った量のバランスを図ること。
これらはどれも、自分の思考と感覚と感性を、それこそ思いっきり動員してこそ、最適な選択が可能となり、最善の結果を得ることができる。言い換えれば、思考と感覚と感性の動員なくして、その時、その場での最適な選択と最善の結果は決して得られないという事実があるのです。
そうか、だとしたら、敢えて「~放題」の現場に身を置くことは、それらに果敢にチャレンジすることは、自身の思考と感覚と感性を磨く、絶好のトレーニングとなるのかもしれない。
おまけに、自分のいじましさを断捨離して、エレガントな自分を演出する絶好の機会にすることだってできる。
袋からはみ出たキュウリを押し込める算段をしている姿よりも、キュウリが数本ゆったりと収まった袋を持っている姿の方が素敵に見えますものね。50円×何本の「お得感」よりも、その方がずっと「お得な評価」を得ることができるはず。
あれ? これって、いじましい自分へのささやかな抵抗かもしれませんが……。
yahoo!ニュース Japan やましたひでこ
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