「シンプル」とは響きのいい言葉だ。これを「単純」と記せば、なんだか知性に欠けるような印象が湧いてもくるし、また、「簡素」でも「質素」でも、そこはかとない侘しさが漂う。
だから、「シンプル」を冠のよう押し頂いて「ライフ」と合体させた、さらに魅力的な響きのある「シンプルライフ」に、私たちは憧れを抱くことになる。もちろん、「単純生活」「簡素生活」「質素生活」に憧れを掻き立てられることはないだろう。
もっとも、近頃はパワーのある「ミニマル」が台頭し、この過激さに、シンプルライフもいささか勢力を衰えさせているかもしれない。
確かに、何もかもが過剰に、しかも複雑に絡み合ったモノ、情報、人間関係の中で生活を営んでいる側からすれば、ミニマル、シンプルを標榜し実践している側を羨望の目で眺めたくなるのも無理からぬこと。だとしたら、ミニマリストであることは、あるステージにたどり着きステータスを獲得していると言えなくもない。
だからなのか、「何もない」「何も持たない」ライフスタイルの自分を喧伝する人たちの記事が、SNSの世界に跋扈しているように思う。
モノがない豊かさ
そうか、今は「何も持たない」ことを臆面もなく売りにできる時代。ひと昔前ならば、持たないのではなく「持てない貧しさ」に憤りを覚えながら人生を歩んでいた人も多かったはず。モノを持てない理不尽さは、どうにも耐え難いものに違いないのだから。
だとしたら、世の中はずいぶんといい方向に転換してきたと言っていいのだろうか。いいえ、そんなことないはず。なぜなら、あえて、モノを持たないのか、あるいは、やはり、経済的な事情でモノを持てないから持たない生活にシフトしたのか、そこの線引きは大いに惑うところでもあるから。
ところで、私、断捨離のやましたひでこが、なぜこんなことを書いているかと言えば。それは、どこまでも私の個人的な感慨でしかないのだけれど、私たちは、新しいモノを手に持つことに喜びを見いだすのは自然なことだと思っているから。
新しい服に新しい靴
新しいパソコンに新しい携帯
新しい家電に新しい家具
どれもが心が浮き立つものだ。でも、それはやがては時の経過とともに古びてもくるし、機能が追いつかず故障もする。けれど、なにより飽きが出てくるだろう。そうしたら私たちは、新たな刺激を求めて、また新たなモノを手に持とうとするはず。
繰り返しておこう、新たにモノを手にしたくなるのは自然なこと。なぜなら、私たちには変化刺激が必要なのだから。
もしも、ミニマルライフが「何もない」「何も持たない」と、モノをひたすら排除していくことに走るものであるならば、その後にやってくる世界は、殺伐か、殺風景か、無味乾燥か。
ミニマリストたちも、決してそんなことを望んではいないはずですね。
だから私は、やはり、こんなふうなスタンス。
持つべきモノは持っている。
持ちたいモノは持っている。
持つべきではないモノは持たない。
持ちたくないモノは持たない。
さてさて、こんな思考、感覚、感性を動員したライフスタイルは、やはり「断捨離ライフ」と言っておくことにいたしましょう。
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*「断捨離(R)」は、やましたひでこ個人の登録商標です。