「記念に勉強したわけではない」 カタカムナ、マノスベシ 龍生親分 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

「記念に勉強したわけではない」 カタカムナ、マノスベシ 龍生親分

ごきげんさまです。
断捨離のやましたひでこです。






私やましたひでこの師

武道家
整体師
カタカムナ研究家

三枝龍生

合気道も整体もカタカムナも、この道四十年以上の研究と追求と実践の徒、ご覧の通りの迫力なので、私は先生とは言わずに大親分と呼ぶ時があるくらい。


私は、一年間ずっと龍生先生が主宰する「マノスベシ会」で学び続けた。


マノスベシ
間之統示


間<マ>を統<スベ>していく学問、いえ、道といったらいいのか。

そして、「間」とは、言うまでもなく、

空間の「間」
時間の「間」
人間の「間」

「統べる」とは、

統一、統治、正統
ひとつにまとめ、治め、全体につながること。


先週末、この一年間、全20回の座学、

気<小周天・大周天>
身体<整体>
言葉<カタカムナ>


これらが、縦横無尽に飛び交う講座が無事修了。

でも、修了といっても、入門初級が終わった程度と思ったらいい、学びを深め実践を重ねていくのは、これからのことなのだから。



カタカムナ ウタヒ 第一首

カタカムナ
ヒビキ マノズベシ
アシアトウアン
ウツシマウル
カタカムナ ウタヒ


初回の講義で、龍生先生はこう言われた。

「いつの時代も本質を学ぶ者は少ない。
なぜなら、自分の眼で観て判断できる者は少ないから。」


つまり、龍生先生のカタカムナ第一首の意訳解説は、

「カタカムナの大切な一面は、間の統<スベ>が理解できるかどうか。そんな大切なものでも、きちんと写し学ぶものはいつの時代も少数者。」

「あなたもこれから、カタカムナを学ぶなら、時代の多数に組されぬ少数者であろうが、周りを気にせずしっかりと学びなさい。」


もちろん、この意訳は、講座の初回だったからこそ。
講座が進むにつれて、アシアトウアンの持つ深い意味が明らかになっていって。


そして、最後の講義で龍生先生が、こう言われたのが私の心に残る。

あなたは、カタカムナを
「記念に学んだのではない」


気と身体を絡めてカタカムナを学ぶ意義は、

タカミムスビ
カミムスビ

フトマニ
カミヒビキ

これらを体現し、存分に味わいつくし、自分の人生を自在に生き抜いていくこと。









ああ、この雰囲気、このイデタチ、まさにヤクザだわ…。

はい、龍生大親分が伝え語り教えるカタカムナは、愚連隊カタカムナ^^;

ムーディー・カタカムナ
ディレッタント・カタカムナ

そう、たしかに、こういった記念に学ぶものとは程遠いですね(^_-)-☆





その証拠に、打ち上げのビールもこんなふうだから。


龍生先生、有難うございます。
一緒に学んだマノスベシ会のお仲間の皆様、有難うございます。

お蔭で、私の断捨離も、いよいよもって、マノスベシの追求と実践であることが明確になりました。



最後に残るのは、身体だけ――自分を見つめなおす「整体の智恵」
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