「ハハ キトク スグカエレ」というほどではなかったけれど。 | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

「ハハ キトク スグカエレ」というほどではなかったけれど。

ごきげんさまです。
断捨離のやましたひでこです。





ずっと雲の中・・・



「あんたは美人さんだね」
「有難う、美人に産んでくれて」

これが、意識を回復した母と娘である私の最初の会話。

たしかに私の母は美人だったよう。
女学生の頃、誰もが振り返って見たという逸話を聞いたことがある。

けれど、それは70年前のこと。
そして、残念なことに私は母の美しさを知らない。

なぜなら、母は子供である私の前で美しく装うことなどなかったから。

思うに、この母の言葉は、私を褒めているようで、
実は、美人であったかつての自分を自慢したかったのかもしれない。

だって、母は、未だかつて私を褒めたことがないもの。


それから、何を言い出すかと思えば。

「たこ焼きが食べたい」
「カッパ巻きが食べたい」
「すき焼きが食べたい」

でも、もう固形物を嚥下することはできない。

それにしても、これでは意識のある母との最期の会話が、
自慢と食べものの話となってしまう可能性が高いかもしれない。


逝く旅を目の前にして、娘である私に言い遺しておきたいことは、
いったい何かしらね?


よく、親が危篤ともなれば、なにをおいても駆けつける。

そんなイメージが先行するけれど、
私はどうにも鬼娘で危篤の知らせをきいても、
そんな気持ちにはならないだろうとずっと思っていた。

だから、まずは仕事を片づけてから。

けれど、その仕事で失敗を繰り返すこととなり、
心ここにあらず状態を露呈することになる。

やはり、気になっていたのだろうね、危篤状態の母のこと。

そして、急ぎ戻ってみたのだけど。


よく、「最愛の母の死」、なんて言葉を聞くけれど。

この「最愛」というイメージは私には湧かない。

どちらかと言えば、相克<そうこく>の関係、
タメコミアンVSダンシャリアンという断捨離バトルを繰り返した母と私。

けれど、今は、

勝つとか負けるとか、
認めるとか認めないとか、
許すとか許さないとか、

そんなことは、もう、どうでもいいこと。


だから、私は淡々と実家の母の部屋を断捨離する。



http://123direct.jp/tracking/cr/G74a0nDQ/1234567890/1234567890


ああ、案の定というのか、
母の自室の引き出しからは、こんなものしか出てこない。

体温計5本
耳かき10本
爪きり7本
ライター30個

あらら、こんなことを書きつらねたら切りがないか^^;

とにかく日常品がわんさかわんさか、溜め込み名人の面目躍如といったところか。

夫は言う。

「まだ、亡くなってはいないのだから、そんなに慌てて断捨離しなくてもいいだろうに」

いえ、そうではなく、私はこう返す。

生きている亡くなっているは関係のないこと。
私はただ、母の毎日の暮らしの後始末をしているだけのこと。

日々の暮らしの後始末。

日常の始末がずっと先送りになったままの母。
日常の始末をすることなくやり過ごしてきた母。

そうですね、その母のずっと溜め込まれた日常の後始末をすることが、私の役割として与えらたに違いないのだから。






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