それぞれの幸せのカタチ ~2度目のブータン旅日記<最終回> | やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離®」Powered by Ameba

それぞれの幸せのカタチ ~2度目のブータン旅日記<最終回>

ごきげんさまです。
断捨離のやましたひでこです。




カリンの盲学校を訪問。

目の不自由な子供たちが、
民族楽器の演奏と歌で私たちを歓迎してくれる。

親元を離れ先生たちの親身な世話を受けながら、
子供たちは懸命に学ぶ。

彼らの幸せを思わず祈らずにはいられない。
けれど私はこの子供たち一人ひとりが望んでいる幸せのカタチを、
知るよしもなく。



8月末から9月初頭にかけてのブータンへ9日間の旅。
その旅日記も13回目の今回でお終いに。

最後のブログ記事はやはり幸福のカタチについて。

でも、その前に、
沖ヨガ創始者沖正弘道師の「冥想」についての定義を確認しておこうか。

冥想とは、

ひとつひとつの物事を広く深く感じて行動すること

さて、この私が、2度目のブータンの旅で、
どこまで広く深く感じて行動できたのかは、
はなはだ心許ないかぎりであるけれど。

以下は、私なりに感じたことを書かせていただきますね。

ブータンという国が掲げる「GNH・国民総幸福量」の4つの柱

・公正で公平な社会経済の発達
・文化的精神的な遺産の保存促進
・環境保護
・しっかりした統治

そうですね、私はこう思うのです。

国がどんな施策をしようとも、
それは国民に対しての幸福への側面の環境づくりであって、
幸福とはどこまでも個々人の幸福の捉え方であり、
幸福感とはそれぞれの感じ方であるのだと。

ブータンで暮らし生きていて、
幸せを感じている人もいるだろうし、
そう感じていない人もいるのも当たり前のこと。

それは、日本で暮らし生きている私たちも同じこと。
幸せを感じている人もいるだろうし、
そう感じていない人もいる。

先進国だから、発展途上国だから、
というのは問題ではないですね。

もちろん、今現在、戦争や紛争の最中にある人々は別次元。
かられは、幸不幸を生きているのではなく、
悲劇の中を生きているのです。

幸不幸を云々できる次元にいる有難さ。

その有難さの中にいるからこそ、
自分自身にとって幸福とは何なのかを、
考えておくことが大切なんですね。

ああ、わたしにとっての幸せとは?
さあ、あなたのとっての幸せとは?

そう問いかけられた時、
その答えが明確に明快に浮かびあがってくるのかどうか。

そうですね、まず、私が言えることはこれ。

生活の不便・モノの不足 即ち、不幸ということもなく。
生活の便利・モノの余剰、即ち、幸福ということもない。

また、逆に、

生活の不便・モノの不足 即ち、幸福ということでもなく。
生活の便利・モノの余剰、即ち、不幸ということでもない。

そうですね、つまり

ブータンは、不便で不足があるからこそ、
そこには「幸福」がある・・・

という短絡的な結論も出せないし、

日本は、便利過ぎてモノが有りすぎるからこそ、
ここには「幸福」がない・・・

というのもまた短絡的な結論でしかない。

不便であれ便利であれ、不足であれ過剰であれ、
その環境に晒されていることによって、
思考停止に追い込まれているとしたら、
それこそが不幸なのだと思うのです。


さて、ブータンの至るところで目にする犬たち。

街でも寺院でも学校でも、
ブータンの犬たちは、こんな恰好で寝そべっている。

人や車が近づいてもこのまんま。








うずくまって寝る犬しか知らない私は、
まるで五体投地のごとく足を投げ出して寝ている犬を見て、
最初は死んでいるのかと思ったほど。

人に邪魔にされることもなく。
人に追い立てられることのなく。
人にいじめられることもなく。

まさにこのポーズがブータンの犬の幸せなカタチ。

そうだ、今この国で、とにかく幸せの中にいるのは、
間違いなくこの犬たち。

そう思う。

でもね、犬にしてみれば、
僕はお腹がすいてこうやって寝ているしかない不幸な犬
と思っているかも知れないけれど。

有難うございます。
あなたとの出逢いにいっぱいの愛を込めて。



伝説のヨガマスターが教えてくれた 究極の生きる知恵
龍村修&やましたひでこ著/PHP研究所






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