2022年9月10日

 

2日間の雨によるお休みを頂きました。

 

大垣駅から樽見鉄道に乗り、美江寺駅を出ます。

 

昨夜の雨で濡れた道を進みます。

 

美江寺宿(みえじじゅく)

日本橋から55番目の宿場町。

次の赤坂宿まで二里八町。

美江寺宿は小宿であった。しかも大雨の度に長良川の逆水に見舞われ、宿場前後の街道は浸水し、宿としての条件は劣悪で評判は悪く、幕末の頃にはガラの悪い宿場として恐れられた。

天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、美江寺宿の宿内家数は136軒、うち本陣1軒、脇本陣ナシ、旅籠11軒で宿内人口は582人であった。

 

一里塚跡

 

高札場跡

 

美江寺宿本陣跡

道標と案内図

 

広重が描いた地、フォトスポットだとか。

ならばとパッシャ!

 

揖斐川土手

今年初めての彼岸花

ガイドブックを忘れた旅人には道標だけが頼りです。

 

揖斐川、呂久の渡し跡

現在の揖斐川の流れは大正十四年(1925年)の改修で変更された。

 

小簾紅園(おずこうえん)

孝明天皇妹である皇女和宮が徳川家茂の元に嫁ぐために、中山道で江戸に下った折、旧暦10月26日、呂久川(揖斐川)の呂久の渡しを利用した際に、

「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」

の和歌を詠んだということを記念し、昭和四年(1929年)4月26日に開園した。

 

一里塚跡

 

赤坂宿大灯台モニュメント

 

赤坂宿(あかさかじゅく)

日本橋から56番目の宿場町。

次の垂井宿まで一里十二町。

赤坂宿は杭瀬川(くいせがわ)の舟運や谷汲(たにぐみ)街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わった。

天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、赤坂宿の宿内家数は292軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒で宿内人口は1129人であった。

 

赤坂宿御使者場跡(江戸口)

 

赤坂湊跡

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赤坂宿本陣跡

 

赤坂宿町並み

 

兜塚

赤坂宿御使者場跡(京口)

 

昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)

古墳の上で昼飯は売ってません。

 

青墓宿(あおはかのしゅく)

美濃国不破郡青墓村(現在の岐阜県大垣市青墓町)にあったとされている古代・中世の東山道の宿駅。平安時代末期から鎌倉時代に遊女や傀儡子が多くいたことで知られた。

 

青野ヶ原一里塚跡と常夜灯

 

相川の人足渡跡

 

東の見付

 

垂井宿(たるいじゅく)

日本橋から57番目の宿場町。

次の関ケ原宿まで一里十四町。

垂井宿は東海道宮宿に通じる脇往還美濃路との追分を控え、西美濃の交通の要衝として栄え、中山道で唯一大八車の使用が許可された。毎月五と九の日に南宮(なんぐう)神社鳥居付近で六斎市が立ち大いに賑わった。宿長は七町(約763m)、西町、中町、東町の三町で構成されていた。

天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、垂井宿の宿内家数は315軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒で宿内人口は1179人であった。

 

町並み

 

西の見付

 

垂井一里塚(南塚)、関ケ原の合戦浅井幸長の陣跡。

 

中山道松並木

 

関ケ原の戦い、山内一豊陣跡

 

中山道松並木

 

 

関ケ原宿(せきがはらじゅく)

日本橋から58番目の宿場町。

次の今須宿まで一里。

関ケ原宿は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地(現在でも東海道線、国道、名神高速道が集中)で軍事上の要衝だった。関ケ原は勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、問屋場は八件置かれ、美濃十六宿中加納宿に次ぐ規模を誇った。

天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、関ケ原宿の宿内家数は269軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、問屋八、旅籠33軒で宿内人口は1389人であった。

 

関ヶ原駅

 

本日はここまで。

 

 

本日のマラニック距離:24.29km

参考:ちゃんと歩ける中山道六十九次・ウィキペディア

1里(約4km)=36町、1町(約110m)=60間、1間=6尺(約1.8m)。