「自分で考える」クセって大事でしょう?
新卒者採用イベントとして開催する自社の会社説明会の
一部のパートを、代打で引き受けて欲しいという依頼がありまして。
説明の内容自体は、あくまで代打なので、既存のコンテンツを
活用させていただき、若干の自分用のメモを加えただけで説明、
事なきを得ました。
それ自体がどうこういう話ではなくて、非常に印象的だったこと。
パワーポイントを使った説明で、最後に自社で価値基準とされている
ことが説明されているスライドに。
「最後に。
これは、弊社で大事にしていることなので、今日は皆さんに
是非覚えて帰っていただきたいと思います」
という一言を添えたところ、
それまでボケーっと聞いていた学生も、初めから最後まで緊張した
面持ちで聞いていた学生も、とにかくすべてといって良いくらいの
参加者が皆、一生懸命メモをとり出した。
ま、そのパートは実際に社内でも「大事にしよう!」と最近言われている
内容だし、「覚えて帰っていただきたい」なんて言葉を発したもんだから、
彼らの行動も不思議じゃないんだけど。
だけどとっさに思ったのは、なんだか学校みたい、ということと、
ちょっとした違和感。
確かに学校では、優しい先生なんかは、
「ここは試験に出るから覚えておくように」
なんていいながら板書してて、きっとそれを聞いていた生徒たちは
ノートに内容を書き写しながら、マーキングをしていたと思う。
・・・だけどもさ。
前から感じていたことだけれど、会社の中で、誰かがこうだ!
とハッキリと言い切ったことって、なんだかそれはそれで通って
しまうんじゃないか、ということ。
あまりにハッキリと言い切られてしまうと、いや、違うんじゃない?とか、
こういう考え方もできるんじゃない?というようなコメントがあんまり
発生しない、ということ。
・・・でも、それでいいんだっけ?
私がいま所属している組織ではないところでは、そこから活発な議論が
発生しているのかもしれないんだけれど、今の私の職場だと、前述した
ように、そこでぷっつり新しい意見が出てこなくなる。
なんて言いながら、そういう傾向を逆手にとって、自分自身が意図的に
言い切った場面もあるわけだけれど。
なんだか、言い切ったもん勝ち!みたいな風潮って、あんまり健康的
ではないと思う。
間違ってもいいから、あと、相手があることなので、表現の仕方は
考慮しなければならないというのは所与の前提条件だとして、
でも、自分の思うところはきちんと、例え周囲の人と自分のそれが
違っていても、堂々と述べるような、そんなスタンスのある人たちとの
議論の場がいいなあと思います。
もちろん、そんなことをするためには、普段から、対峙している状況
だったりを、自分はどう解釈するのか、そこからどんな発想をするのか、
ということを思い巡らせたり、考えたりするクセ付けができている人たち
でなければならないと思われるのですが。
一部のパートを、代打で引き受けて欲しいという依頼がありまして。
説明の内容自体は、あくまで代打なので、既存のコンテンツを
活用させていただき、若干の自分用のメモを加えただけで説明、
事なきを得ました。
それ自体がどうこういう話ではなくて、非常に印象的だったこと。
パワーポイントを使った説明で、最後に自社で価値基準とされている
ことが説明されているスライドに。
「最後に。
これは、弊社で大事にしていることなので、今日は皆さんに
是非覚えて帰っていただきたいと思います」
という一言を添えたところ、
それまでボケーっと聞いていた学生も、初めから最後まで緊張した
面持ちで聞いていた学生も、とにかくすべてといって良いくらいの
参加者が皆、一生懸命メモをとり出した。
ま、そのパートは実際に社内でも「大事にしよう!」と最近言われている
内容だし、「覚えて帰っていただきたい」なんて言葉を発したもんだから、
彼らの行動も不思議じゃないんだけど。
だけどとっさに思ったのは、なんだか学校みたい、ということと、
ちょっとした違和感。
確かに学校では、優しい先生なんかは、
「ここは試験に出るから覚えておくように」
なんていいながら板書してて、きっとそれを聞いていた生徒たちは
ノートに内容を書き写しながら、マーキングをしていたと思う。
・・・だけどもさ。
前から感じていたことだけれど、会社の中で、誰かがこうだ!
とハッキリと言い切ったことって、なんだかそれはそれで通って
しまうんじゃないか、ということ。
あまりにハッキリと言い切られてしまうと、いや、違うんじゃない?とか、
こういう考え方もできるんじゃない?というようなコメントがあんまり
発生しない、ということ。
・・・でも、それでいいんだっけ?
私がいま所属している組織ではないところでは、そこから活発な議論が
発生しているのかもしれないんだけれど、今の私の職場だと、前述した
ように、そこでぷっつり新しい意見が出てこなくなる。
なんて言いながら、そういう傾向を逆手にとって、自分自身が意図的に
言い切った場面もあるわけだけれど。
なんだか、言い切ったもん勝ち!みたいな風潮って、あんまり健康的
ではないと思う。
間違ってもいいから、あと、相手があることなので、表現の仕方は
考慮しなければならないというのは所与の前提条件だとして、
でも、自分の思うところはきちんと、例え周囲の人と自分のそれが
違っていても、堂々と述べるような、そんなスタンスのある人たちとの
議論の場がいいなあと思います。
もちろん、そんなことをするためには、普段から、対峙している状況
だったりを、自分はどう解釈するのか、そこからどんな発想をするのか、
ということを思い巡らせたり、考えたりするクセ付けができている人たち
でなければならないと思われるのですが。
よく読むニュースソース
気に入ってRSSしているサイト。
アメリカのWeb2.0系企業の動向だとかを速報で知ることができる。
CNETなんかも読み物としては興味深い記事がアップされるけど、
こちらはそうした専門の方が専門的な見識をもとに解説される前の、
ローデータに近いかたちで速報されるニュースソース。
このブログにたびたび登場してくる同僚に紹介したところ、
「面白いね」との評価だったので、ここブログにも掲載。
自分の現在の知識量で、そのニュースをどう捉えるかを訓練
するのにも最適。私も日々チェックしてます。
http://jp.techcrunch.com/
アメリカのWeb2.0系企業の動向だとかを速報で知ることができる。
CNETなんかも読み物としては興味深い記事がアップされるけど、
こちらはそうした専門の方が専門的な見識をもとに解説される前の、
ローデータに近いかたちで速報されるニュースソース。
このブログにたびたび登場してくる同僚に紹介したところ、
「面白いね」との評価だったので、ここブログにも掲載。
自分の現在の知識量で、そのニュースをどう捉えるかを訓練
するのにも最適。私も日々チェックしてます。
http://jp.techcrunch.com/
デジタルアーカイブ
私にとっては”話せる貴重な同僚”とランチ。
テーマは「デジタルアーカイブ」。
私は昔から、よく死後のことについて想像を巡らせていた。
その想像の矛先はいろいろなんだけど、その中の一つに
「死後に物理的に残るもの」というのがある。
誰しも、自分だけにとどめておきたいことがある。
それらは意識/記憶の中だけに残るものもあるし、その
意識/記憶の断片が写真や紙のメモ、或いは音声かも
しれないし、メールやこうしたブログの中にある場合もある。
意識/記憶の中にだけある場合は良いのだが、何らかの
媒体に断片的にでも残されている場合、それらは当然
消去されるまで「存在」することになる。
私の場合、それらの断片は他の誰にも見られたくないなあ・・・
と思っていて、極力媒体に残さないようにはしているけれど、
大切な記憶を引き出すトリガーとして断片的に残している
ものもある。
それって、他の人はどうしているのだろう?
というのがずーっと気になっていて、数年前に文芸春秋の
ナントカ賞とやらでそれらしき題材を扱った小説が発表された
と知ると、ひっさしぶりにあの分厚い文芸春秋を買って
読んだりした。
タイトルも忘れたけど、その小説の中では、大切な奥さんの
ことを詠んだ詩か何かが「誰にも見られたくない」それとして、
パソコンの中に残されていた。
「僕が死んだら、”それ”を消去して欲しい」
かつて新入社員の頃、がむしゃらになって一緒にがんばった
主人公とその同僚の間で交わされた約束を果たすため、
主人公はその同僚の家に忍びこみ、パソコンを分解して
ディスクを破壊する。
ふーんなるほどねーと思っていたけど、最近ランチをした
その同僚の場合は、それを商売にできないか、と話を
してきた。
そういうニーズって、結構あるんじゃないか。だからそれを
商売にしてみたら、結構いけるんじゃないか、だって。
面白いね。
そうやって新規事業のアイデアって生み出されていくのね。
その同僚との会話は、いろいろ刺激になって面白い。
テーマは「デジタルアーカイブ」。
私は昔から、よく死後のことについて想像を巡らせていた。
その想像の矛先はいろいろなんだけど、その中の一つに
「死後に物理的に残るもの」というのがある。
誰しも、自分だけにとどめておきたいことがある。
それらは意識/記憶の中だけに残るものもあるし、その
意識/記憶の断片が写真や紙のメモ、或いは音声かも
しれないし、メールやこうしたブログの中にある場合もある。
意識/記憶の中にだけある場合は良いのだが、何らかの
媒体に断片的にでも残されている場合、それらは当然
消去されるまで「存在」することになる。
私の場合、それらの断片は他の誰にも見られたくないなあ・・・
と思っていて、極力媒体に残さないようにはしているけれど、
大切な記憶を引き出すトリガーとして断片的に残している
ものもある。
それって、他の人はどうしているのだろう?
というのがずーっと気になっていて、数年前に文芸春秋の
ナントカ賞とやらでそれらしき題材を扱った小説が発表された
と知ると、ひっさしぶりにあの分厚い文芸春秋を買って
読んだりした。
タイトルも忘れたけど、その小説の中では、大切な奥さんの
ことを詠んだ詩か何かが「誰にも見られたくない」それとして、
パソコンの中に残されていた。
「僕が死んだら、”それ”を消去して欲しい」
かつて新入社員の頃、がむしゃらになって一緒にがんばった
主人公とその同僚の間で交わされた約束を果たすため、
主人公はその同僚の家に忍びこみ、パソコンを分解して
ディスクを破壊する。
ふーんなるほどねーと思っていたけど、最近ランチをした
その同僚の場合は、それを商売にできないか、と話を
してきた。
そういうニーズって、結構あるんじゃないか。だからそれを
商売にしてみたら、結構いけるんじゃないか、だって。
面白いね。
そうやって新規事業のアイデアって生み出されていくのね。
その同僚との会話は、いろいろ刺激になって面白い。