6月末になってスーのお腹が大きくなってきたのに気づいた。父親が誰なのかの論議が賑やかで、やがて7月13日が来た。第一子が濃い茶色の赤ちゃんだったので「犯人」は銀ちゃんだと推定してホッとした。一番理想的な組み合わせだったから。2番目に白が出てきて、最後に茶色だった。山川さんが銀の赤ちゃんの時の写真を送ってくれたが、色もお腹の白斑も2頭の色物にそっくりだったので銀説は100%確定した。子犬たちはミルクがたっぷりなので日に日に大きくなってきた。2週間でうす目が開いて次第に音にも反応し始めた。3週間経つとセカンドリビングのタイルの上でよちよち歩き始めた。7月31日の朝、子犬3頭を抱いていて、雄を落としてしまった。鼻から少しの出血があり、泡とくしゃみがしばらく続いて、どうなることかと心配したが、昼頃にはお乳を飲み始めて、特に障害は残らなかったようで安心した。これから庭を這い回るようになるので、カラスの攻撃などリスクを避けて、車に慣らせるなど真夏の教育課題が目白押し。8月11日は山の日で、生後4週経過。離乳食開始。ミルクはあまり好まない。離乳食と同時にユキちゃんがスーに替わって子供達の面倒を見始めた。スーより余程母親らしいところがいかにもユキらしい。子供達もお乳が出ないのが不思議なだけで、遊び相手としては実母より気に入っているのが傍から見ていて良く判る。今では呼ぶと飛んでくるようになった。犬舎周りをゴソゴソ探検するのが好きなので、周囲をバーナーで焼却した後水洗いして遊びの環境を整えた。また課題の軽トラ初乗りをした。助手席に乗せて新聞配達に連れて行った。走っているうちに雄は僕の膝で、白メスは助手席と運転席の間で、茶メスは足元でそれぞれ寝始めた。3頭とも全く車酔いしなかった。できるだけ毎日乗せてやって酔わない子供にしてやりたい。3頭の性格、性能はまだ判らない。雄はおっとりしていて探検心旺盛で足が延びる。茶メスはやや神経質でガウガウ攻撃的である。白メスはその中間かな?
13日にテレビで『誰も知らない』を見た。2004年の作品だが、その当時よりもさらに社会の格差は広がり子どもの貧困も深刻化している。我が家の4本足の子ども達よりもっと不幸な境遇に置かれている子どもが沢山居ることに心を痛める。若者に、子ども達に医療、教育などの投資を集中して、天文学的借金と原発を残すことなくバトンを繋いでいかなければならない。税金の集め方と使い方を逆転させること、平和憲法を守り、平和憲法の旗の下、世界に貢献することこそ、日本再生の唯一の選択肢だと思う。
4月19日の全麻3例目が通算手術数10000件になりました。そしてたまたま翌週の4月25日が私の65歳の誕生日でした。1982年に整形外科初期研修を終えて高松平和病院に赴任しました。内科、外科、整形外科の研修6年を終えたばかりで、指導医がいるわけでもなく、まさに手探りの出発でした。たまたま香川医大の開設と時期を同じくしていたのと、初代の上野教授が当院の手術室用イメージ透視器械を見に来られたのがきっかけで教室へ出入りさせていただくことになりました。難しい症例の相談にのっていただいたり、上野教授(股関節外科)、多田助教授(手の外科)、岡田講師(脊椎外科)を筆頭に諸先生方が当院へ来られて執刀指導をして下さいました。これが私の最高の研修になりました。若手の先生方にも助手として手術支援していだだきました。その後、当院で初期研修を終えて整形外科を選択した先生が、外部研修を経て各分野の新しい手術術式や考え方を導入し定着させていきました。鈴木先生は脊椎外科、細川先生は膝靱帯再建術、吉村先生は脊椎外科を研修してきました。鈴木先生が外部研修に出た後、当時の北海道勤医協から猫塚先生を筆頭に5名の先生が短期支援に来てくださいました。なお当院で初期研修をされたのは、早川先生、木田先生、木戸先生です。
開設後数年の手術症例数が少なかった時代は、麻酔をかけてくださる先生を確保するのも大変でした。手術指導または助手をしてくださる先生の都合と麻酔医の都合を上手く摺り合わせて日程と時間を調整すると夜の8時に手術開始などというのもしばしばでした。「僕の仕事は手配師」だと看護師さんたちにぼやいたものです。そんな時代を経て、今では香川大学麻酔科教室から定期的に麻酔医を派遣していただけていることに大変感謝しています。本来なら以前のように香川大学整形外科教室との繋がりがあって指導していただけるのがベストなのですが、現状では困難です。
6年前に高橋先生が入局して初期研修ののち整形外科後期研修を開始しました。6ヶ月の外傷研修や短期の手術見学、実習を積み重ねて導入した新手術手技やシステムは、これまでの当院での方式を格段にレベルアップすることに繋がりました。今後の課題は、1)ひきつづき術式やシステムの改良に取り組むこと、2)新しい手技や分野を導入すること、3)当面4人目の整形外科医を養成すること、だと思っています。
もう一つのライフワークである「優秀な猪犬遺伝子の保存」についても65歳の誕生日は通過点です。2つのファイルメーカーに手術と猪猟の記録が蓄積されていますが、後者は現在到達点が305です。当面の目標を500に設定しているので、まだしばらくかかります。両者に共通しているのは、「量から質への転化」ともいえる発展です。手術では、医学の進歩につれて当然手術レベルが上がっていくのですが、その成果をより早く取り入れて還元していくという作業が重要になります。同じことは猪犬の世界でも言えますが、こちらは医学の世界とは比べものにならない超零細規模の非組織的世界です。それでも試行錯誤を繰り返しながら20年前の猪捕獲の内容と最近のそれとは格段に変化し進歩しています。10000と305という数字を振り返ると、いずれも私なりの情熱と努力を傾注してきた到達点ではあるのですが、その内容は着実に変化発展してきていると思います。
そしてとりあえず無事定年年齢まで突っ走って来ることができたのは、何よりも良き理解者であり協力者である妻のお陰だと思っています。家庭を顧みず仕事に没頭することができたのは、看護師という職業柄医療をよく理解していてくれたのと、民医連・医療生協運動の良き理解者だった妻のお陰です。また多忙な本業の合間で沢山の和犬を飼育し、猪猟で試し、良い遺伝子を残す取り組みが可能だったのも、犬が大好きで犬を見る目が私より上の妻あってのことでした。また妻に次いで感謝しなければならないのは医療では看護師さんをはじめ沢山のスタッフの皆さんであり、和犬の世界では山川さんを筆頭に猪猟や和犬を教え協力してくれた仲間たちです。これまでも、そしてこれからも、妻と沢山の仲間達に支えられて、ひきつづき量と質を追求し続けたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
2年前から『けもの道』というマニアックな雑誌に連載記事を投稿してきたのですが、3月で雑誌が休刊になり私たちのシリーズも終了しました。タイトルは「熊野猪犬の止め芸遺伝子をもとめて」です。三重県の山川さん(貴重な猪猟和犬を知る唯一の人)と対談方式で24回つづけました。雑誌連載の経験は初めてで勉強になりました。①読者層のレベル、関心を意識して記事の内容と組み立てを工夫し、できるだけ文章を少なく写真、表、グラフなどを多くしました。②和犬の歴史シリーズではネットのありがたさを痛感しましたが、資料の原本所有者(国立博物館など)に一つ一つ資料の使用許可を取らなければならないことが大変でした。③放射線科の田所さんにペン画をお願いして記事を盛り上げていただきました。挿画1は「和犬と炭焼き小屋」です。昭和前期の農山村の原風景を思い出して感動したという反響が多かった絵です。この絵に懐かしさを感じる人は少なくなったと思いますが・・・。ちなみに2頭の犬は我が家の庭でくつろいでいる「ユキ」と「セナ」です。挿画2は、犬が猪を寝屋(深いシダなど昼間の隠れ家)から追い出して追跡接近して動きを止める瞬間です。そして挿画3は、ついに猪の退路を遮断して釘付けにして疲れさせ座り込ませた状態を表現しています。この一連の技=止め芸の構成要素は優れた頭脳とスピードで、きわめて遺伝決定性が高い内容です。この対談を続けながら「龍」を中心にした系統繁殖の実践に取り組み、理論と実践がピッタリ結合したような成果をあげつつあることを山川さんと確認し、さらなる保存運動へと繋げていきたいと思っています。









