「自由」、
人なら誰もが
願ってやまない自由。
皆それを求めるけれど
それがどんなカタチか、
どんな歯触りか、
どんな色合いで、
どんな声を発するのか、
広いのか長いのか、
熱いのか多いのか、
痛いのか大きいのか、
そんな自由のことを
未だ識るひとはまだない、
今日はそんな自由を
綴った日のこと。
人の一生はいつも
束縛と抑圧がその手で搾り出す
生身の苦汁で味付けされる。
生身の苦汁で味付けされる。
誰でも。
いつも脳内に
へばりついている廃泥が
醗酵し続ける音を毎日聴きながら
醗酵し続ける音を毎日聴きながら
わたしたちは日々を生きている。
苦悩が安らぎを生むことはなく、
縋れば縋るものに、
求めれば求めるものが
今日もまたあらたに
尊厳を、
矜持を、
理想を、
紡いだ気持ちを、
あるいは希望を、
純粋さを
今しがた汚泥を歩いてきた靴底が
無造作に陵辱していくのだ。
もしも、
そうでない人がいるならば
あなたはそれだけで
この世の幸福の半分を
すでに手に入れているだろう。
どのように生きれば
人は自由と呼ぶべきなにかに
なれるのだろうか?
巷でよく例えられる
無制限な放逐は
自由ではなく
単なる漂流にすぎない、
自分だけの
あるべき生き方のすがたを
人としての
自分自身のありかを
見失って彷徨える身の
どこに自由があろうか?