「警部さん。今度は何でしょうか」
沢村氏は少し不機嫌そうな顔で振り返るとゆっくりとこちらへと戻ってきた。
「我輩。この部屋に来てずつとこの匂いが気になって仕方ないんですが・・」
「気づきません・・若林君も気づかない・・」
「微かなコーヒーの香り・・」
「これ・・昨日やおととい入れたとかじゃなくって・・今日・・それもさっき入れたコーヒーの香りって感じなんだけどね・・」
「でもこの部屋の何処にもコーヒーメーカーとかカップすら無いし・・」
我輩は豪華な応接セットの大きなソファーに腰掛けると目の前のテーブルを見て大きく手を広げ「ない」のポーズをとると大袈裟に肩を窄めてみせた。
「あっ・・それから沢村さん。心配しないで下さい。」
「我々は:決してあなたを疑っている訳ではありませんから・・はい・・」
我輩は彼を安心させるつもりで顔を緩めて見せた。
「あっ・・思い出した。このコーヒーの香り。銀座の有名な焙煎屋の何って言ったか・・」
「トラジャ・パパサです」
沢村氏はぶっきら棒に答えた。
「そう・・そうでした。トラジャ・パパサ・・」
「先日コーヒー好きの甥っ子の誕生日に買ってやったんですが・・」
「100グラム2000円するんですよね・・高いのなんのって・・」
「我輩もコーヒー好きですが・・もっぱら安いグラム300円のブレンドとかです」
我輩は大理石の大きなテーブルを撫ぜながら再びその香りを嗅いだ。
「それにしてもこんなに香りの強いコーヒーだったんですね・・」
「私はこのコーヒーしか飲まない・・それから・・」
そこまで言うと沢村氏は仏さんの居る机の横に立つと身をかがめ一番下の引き出しを開き右手を差し入れた。
すると微かな「ギギギッ・・」という音とともに遺体が座っている椅子の後ろの壁が一部分だけ動き出したのである。
我輩も若林君もそれには驚いて目を丸くした。
調度ブルーレッズの大きなフラッグが飾られた中央の部分の壁が半円形に回るようにして前にせり出して来たのだった。
「おお・・これは凄い」
我輩と若林君は近くに行きそれを覗き込んで叫んだ。
それは所謂コンパクトなミニバーだった。
「高級な洋酒にワイン・・なんでも揃ってますね・・」
「それにカウンターの後ろには冷蔵庫付きのキッチンまで・・」
メモを取る若林君を押しのけて我輩は人一人がやっと入れる狭いカウンターに足を踏み入れた。
「これだったんですね・・」
「さっき床を見ていてじゅうたんの上に大きな半円の微かな擦り傷があったので・・いったい何だろうと不思議におもっていたのですが・・これだったのか・・こんなの我が家にもひとつ欲しいですね・・」
我輩は沢村氏の方を振り返り微笑んだ。
「彼もこのバーカウンターの事は知っていましたからね・・自殺する前に最後のコーヒーでも一杯入れて飲んだんでしょう」
沢村氏は我輩にそう説明した。
「・・・・なるほど。」
我輩はカウンターの後ろのキッチンに目をやると
「しかし・・これから自殺しょうという人間にしては岡部さんはかなり几帳面なひとだったみたいですね」
「確かにコーヒーを入れた形跡はありますが・・カッブはきれいに洗われてほらこの通りトレイに伏せられています・・」
「それも・・ふたつ・・」
「ひとつは先日私が使用したものです。」
「それに岡部君はかなり神経質な人間でしたから・・」
「・・・なるほど。」
更に我輩はカウンターの下のゴミ箱の中の目をやった。
「使い捨ての紙コップ・・」
我輩は白い手袋をポケットから取り出すと手にはめた。
そしてその紙コップを手にするとまたしてもそれに鼻を近づけると匂いを嗅いだ。
若林君も我輩の横に来て鼻を近づけた。
「警部。これは・・」
「うん。・・・」
我々は顔を見合わせた。
「若林君。この小さなシミ・・血痕じゃないかい・・」
赤じゅうたんに残された小さな黒いシミを我輩は見逃さなかった。
「はい。鑑識にさっそく調べてもらいましょう」
部屋を出て鑑識を呼びに行こうとした若林君に我輩はそっとある事を確認するように耳打ちした。
「はい。警部・・確認してみます。」
「よろしくね・・」
そう我輩が言うと若林君は急いで部屋を出て行った。
「このミニバーのことは岡部さんと沢村さんの他に知っている方はいらしたのでしょうか・・」
我輩は沢村氏の側まで戻ると訊ねた。
「存在はみんな知ってはいましたが・・操作できたのは私と彼だけです」
「・・・なるほど・・」
「まさか・・また私を疑っているんではないでしょうね・・」
「いえいえ。沢村さんには死亡推定時刻にドームで試合観戦していたという列記としたアリバイがありますから・・」
そう言うと我輩はじゅうたんの上の先のよじれたネクタイを再度見つめていた。
「・・・なるほどね」
そして我輩は沢村氏を残し再びカウンターに入るとキッチンのうしろの小さな冷蔵庫のドアに取り付けられたマグネット付きのタイマーを指で触ると今度はそっと耳を押し当てた。
「そうか・・なるほど・・」
そう呟くと我輩はキッチンの水道の蛇口を捻り水を出した。
そして蛇口を暫く見ていた我輩は水を止めると今度は洋酒棚とバーカウンターの間の狭いスペースに体を横にして寝て見せた。
「沢村さん。悪いですが・・このまま一度このミニバーもとのように壁の中に戻してくれますか・・」
「わ・・分りました」
そういうと沢村氏は怪訝そうな顔つきで我輩の指示に従った。
静かな音と共に我輩を乗せたままミニバーは元の壁に収まった。
「沢村さん。聞こえますか・・もう結構です。また開いてください・・」
その壁の中からの声で沢村氏は再びミニバーを開いた。
「ふー。思ったよりも狭くて薄暗いですが物の確認はハッキリできますね・・」
我輩はそう言いながら立ち上がると腰を擦りながら狭いカウンターを出た。
「あ痛たた・・ダイエットしないとこのスペースは我輩にはちよっときついですね・・」
「しかし岡部さんなら大丈夫かもですね・・」
沢村氏はその言葉に一瞬はっと驚いたように思えた。
そこへ鑑識を連れた若林君がタイミングよく戻ってきた。
「警部。警部がおっしゃっていた事は間違いなかったです。」
彼は我輩の耳元でそう囁いた。
「やっぱり・・最近歳のせいでもう一度確認しないと記憶が曖昧でね・・若林君ありがとう」
「これでアリバイも崩れました。沢村さん。あなたがやっぱり犯人ですね」
我輩のその言葉に沢村氏は驚きを隠せずに居た。
「つづく」
