みなさんこんばんは。蓮夏一照です。

今日は源信大師の後半戦。

言うたらですね、

「人生の乗り換え案内、間違えたらどうなるか」

そんな話でございます。

◆「専修は千に一つも失なし」

専修のひとをほむるには
 千無一失とおしえたり
 雑修のひとをきらうには
 万不一生とのべたまう

いきなり強烈です。

専修のひとをほむるには

 千無一失


千回やって、失敗ゼロ。

これ、念仏が万能やからやない。

余計なことを足さへんからです。

スマホの操作でもありますやろ。

「このボタンだけ押して」と言われてるのに、設定開いて、戻って、違うアプリ触って…で、結局うまくいかん。

念仏一本は、

「触らんでええとこ触らん」

それだけ。

◆雑修は「万に一つも生まれん」

これもなかなか厳しい。

雑修のひとをきらうには

万不一生


これ、罰やないんです。

「あれもこれもやる人は、

 肝心の“まかせる心”が育たん」

それだけの話。

◆報土は少数、化土は多数

報の浄土の往生は
 おおからずとぞあらわせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとおしえたり

報の浄土はおおからず

 化土はすくなからず


これ聞くと、

「え、浄土行く人少ないん?」

って思いますよね。

でも源信さん、人数の話してません。

姿勢の話です。

まかせきる人は少ない。条件つける人は多い。それだけ。

◆誰でも、いつでも、どこでも

男女貴賎ことごとく
 弥陀の名号称するに
 行住座臥もえらばれず
 時処諸縁もさわりなし


男女貴賎ことごとく

 行住座臥もえらばれず


要するに、

・男でも女でも

・金持ちでも庶民でも

・立ってても座ってても

・忙しくてもボーッとしてても

関係なし。

「今、このままで呼べる」

それが念仏。

◆見えんでも、照らされてる

煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども

大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

ここ、めちゃくちゃ大事。

煩悩にまなこさえられて

 摂取の光明みざれども


見えへん。感じられへん。信心ある気せえへん。でも、

大悲ものうきことなく

 つねにわが身をてらすなり


Wi-Fiみたいなもんです。見えんけど、切れてへん。

◆姿より、中身

弥陀の報土をねがうひと
 外儀のすがたはことなりと
 本願名号信受して
 寤寐にわするることなかれ

外儀のすがたはことなりと

 本願名号信受して

 寤寐にわするることなかれ


服装、態度、知識。全部バラバラでええ。大事なんは「任せたかどうか」。

◆極悪には、これしかない

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとえに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまう

最後はこれ。

極悪深重の衆生は

 他の方便さらになし

 ひとえに弥陀を称してぞ


ここ、源信さん、逃げ道ふさいでます。

「まだマシになってから」

「もうちょっと善人になってから」

――その“もうちょっと”が、一生来えへん人のために。

◆まとめ

・念仏一本は、失敗しにくい

・雑修は、心が散る

・見えなくても、摂取は続いている

・極悪こそ、名号一本

◆しめ

迷う理由が増えたら、だいたい余計なこと考えとる。呼べばええ。

 それで、もう照らされとる。


今日もそのままで、

南無阿弥陀仏。