いやぁ〜人間ってのは面白いもんで。
親になると、つい子どもを「ちゃんとした形」に整えたくなるんですな。
靴はそろえる。
返事はする。
宿題はする。
みんなと同じように座る。
同じように笑う。
同じようにできる。
これだけ聞くと、まあ普通の願いに見えます。
けれど、その「普通」が、子どもによっては、えらい重たい荷物になることがある。
あるお母さんがおりましてね。
朝になると、毎日同じマグカップでコーヒーを飲む。
でも飲み切れない。
子どもが靴下を嫌がる。
タグが痛いと言う。
音がうるさいと言う。
予定が変わると泣く。
ひらがなの練習をさせようとすると、鉛筆を持ったまま固まってしまう。
お母さんは最初、
「わがままや」と思う。
「みんなできてるのに」
「これくらい我慢しなさい」
「ちゃんとしないと困るよ」
そう言いながら、自分の声がだんだん怖くなっていく。
夜になって、流しに置きっぱなしのマグカップを見て、ふと思うんです。
「あれ、私、何と戦ってるんやろ」
子どもと戦っているつもりはない。
ただ、世間の目と戦っている。
親戚の目、学校の目、近所の目。
「育て方が悪いんじゃないの」という、
まだ言われてもいない声。
これがまた厄介でしてね。
実際に誰かが言ったわけでもないのに、
頭の中で勝手に町内会が開かれる。
議題は、
「この子をどうちゃんとさせるか」。
出席者は、
不安、見栄、焦り、過去の自分。
まあ、ろくな会議になりません。
南無阿弥陀仏。
子どもの特性を知るというのは、
負けを認めることではないんですな。
むしろ、地図を手に入れることに近い。
今まで、「なんでこの道をまっすぐ歩けないんだ」と思っていた。
でもよく見たら、その子の前には、こちらには見えていない段差があった。
音が刺さる。
予定変更が怖い。
文字を書くより、
絵やパソコンの方が楽に表現できる。
それを知ったとき、親は少しだけ肩の力が抜ける。
「ああ、怠けていたんじゃないんや」
「ああ、困らせようとしていたんじゃないんや」
そうわかるだけで、子どもを見る目が変わる。
そして不思議なことに、子どもも少し楽になる。
人間は、理解されると、少し息ができるんです。
ただし、ここでまた難しいのが身内です。
身内というのは、近いぶんだけ、現実より願望を見たがることがある。
「そんなこと外で言うな」
「障害なんて認めるな」
「普通に育てれば大丈夫」
悪気がない場合も多い。
でも、悪気がなくても、刺さる言葉は刺さります。
塩に悪気がなくても、傷口に入れば痛いのと同じです。
親は、子どもの特性だけでなく、周囲の無理解とも付き合わなければならない。
これがしんどい。
子どもを守りたいのに、説明すれば否定される。
黙っていれば孤独になる。
「ありのままでいい」
と思いたいのに、どこかでまだ、
「本当は普通になってほしい」
と願ってしまう。
ここです。
ここに人間の弱さがあります。
子どもをそのまま受け止めたい。
でも、そのまま受け止めたら、世間から外れる気がして怖い。
子どものためと言いながら、実は自分が安心したくて、子どもを整えようとしてしまう。
いや、わしも同じなんですがね。
人は、目の前の命より、頭の中の「普通」を信じてしまうことがある。
けれど、普通というものは、案外あてになりません。
時代が変われば、必要な力も変わる。
鉛筆が苦手でも、キーボードで言葉を出せる子がいる。
人づきあいが苦手でも、一つのことを深く掘れる子がいる。
みんなと同じ道は歩きにくくても、その子だけの小道を見つける子がいる。
親にできることは、その小道を勝手に塞がないことかもしれません。
もちろん、何でも放っておけばいいわけではない。
困ることには手当てがいる。
助けもいる、工夫もいる。
でも、まず必要なのは、その子を直すことではなく、その子を明らかに見ることです。
「この子はこういう子なんやな」
そこから始まる。
あきらめるとは、見捨てることではなく、明らかに見ること。
見えたところから、ようやく一緒に歩ける。
子どもも不完全。
親も不完全。
家族も不完全。
その不完全さの中で、今日も靴下を嫌がり、コーヒーは冷め、宿題は進まず、親はため息をつく。
でも、そのため息の横に、少しだけ笑いがあればいい。
「まあ、今日はここまでやな」
そう言える日が、救いの日なのかもしれません。
弱さごと、特性ごと、そのまま生きていい。
南無阿弥陀仏。
