みなさんこんばんは、蓮夏一照です。

今回のお題は、曇鸞(どんらん)大師の“鋭すぎる心の診断書”と、

道綽(どうしゃく)禅師という“聖道ルート封鎖のおじさん”のお話です。

では、ゆるっと参りましょう。


◆【第一幕】信心が固まらん理由はどこにある?

決定の信なきゆえに
 念相続せざるなり
 念相続せざるゆえ
 決定の信をえざるなり

まず曇鸞大師がこう言います。

「信が決まらんから、念仏が続かんのや。続かんから信も決まらんのや。」


あの、これ聞いた瞬間、

「ダイエットできん人の言い訳」と全く同じ構造で笑いました。

「痩せへんから運動続かへん」

「運動続かへんから痩せへん」

──完全なループ。

人間というのは、“続かん自分”に落ち込んで“ますます続かん”という器用な悪循環を持ってます。

で、大師はさらに言います。

決定の信をえざるゆえ
 信心不淳とのべたまう
 如実修行相応は
 信心ひとつにさだめたり

「信心が不淳=濁ってるんや」


いや、そんなハッキリ言わんでも…と思いますが、曇鸞大師の言いたいことはこうです。

「信心が濁る理由は、“自分でどうにかしよう”を捨てきれへんから」

信心は“気合い”でつくるもんやない。

“覚悟”でもない。

“努力の結果”でもない。

親鸞聖人も言うてます。

信心は阿弥陀さんから“もらう”もの。


だから人間側が濁ってても、揺れてても、

そこは想定内なんです。

◆【第二幕】小路(こみち)から大道へ乗り換えろ

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり

曇鸞大師はこう続けます。

「諸善万行の“小路ルート”やなくて本願の“大道高速道路”に乗り換えなさい」


これ、めっちゃ分かりやすい喩えなんです。

・小路ルート……

道は細い、雨でぬかるむ、迷いやすい、自分で歩かないと進まん。

=修行努力の自力道。

・大道高速ルート……

広い、まっすぐ、運転自分じゃない(阿弥陀運転)。

=本願の他力道。

つまり、

「自分で頑張る道は、永遠に詰むで」

「まかせる道は、乗った瞬間に涅槃まで行きます」

という、衝撃の交通案内です。

しかも曇鸞大師は“涅槃はすぐひらくで”と言うてます。

いやぁ、道案内にしてはスケールがデカすぎる。

◆【第三幕】天子が“龍(たつ)やん!”と拝む男・曇鸞

本師曇鸞大師をば
 粱の天子蕭王は
 おわせしかたにつねにむき
 鸞菩薩とぞ礼しける

最後にこんなエピソード。

梁の天子・蕭王が、

曇鸞大師の姿を見て“この人、菩薩やわ”と平伏した。


普通、天子っていうと、「ワシは偉い」みたいに胸張るもんですが、曇鸞大師の前では姿勢が水平。

それほど“大乗の智慧そのもの”だったということですね。

◆【第四幕】道綽禅師、聖道門を封鎖する

本師道綽禅師は
 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を
 通入すべきみちととく

ここから道綽禅師の出番です。

最初の一句がもう強烈。

「聖道万行をさしおきて

浄土門一本にしぃや」


言い換えると、

「今の時代、難しい修行は無理や。浄土行だけが通行可能やで!」

これ、現代で言うなら、

・株もFXも不動産も難しいから

「全力でNISA一本にしとき!」

みたいな直球アドバイスです。

本師道綽大師は
 涅槃の広業さしおきて
 本願他力をたのみつつ
 五濁の群生すすめしむ

さらに道綽禅師はこう言います。

「五濁の時代の私らみたいな凡夫は、念仏だけが唯一の救い筋や」


五濁とは、人間が生きづらく、荒れ、迷い、しんどくなる時代のこと。

つまり今の世のことです。

道綽禅師は、1200年前に「現代人よ、おまえらには念仏が一番合う」と見抜いてたわけです。

◆しめくくり

曇鸞大師と道綽禅師を合わせて言うと──

「人間は信が揺れる生き物や。それでええ。揺れるからこそ、本願に乗るんや。」

信心が決まらん?

続かん?

濁る?

──全部、救いの対象。

阿弥陀さんは“揺れる心”を前提に、揺れごと抱えてくださる。

ただ、ほんのちょっとだけ、他力の“高速道路”に乗ってみる勇気。

それだけで十分なんです。

では、今日はここまで。

また次の和讃でお会いしましょう。


(了)