みなさんこんにちは。蓮夏一照です。
今回のお題は、ちょっとマニアックやけど、実は“真宗のキモ”である
往相(おうそう)と還相(げんそう)
のお話です。
「なんやそれ、回送列車の仲間か?」
と思ったあなた、大丈夫です。だいたい合ってます。だってこれ、阿弥陀さんの“送り迎え”の話ですから。
◆まずは──「仏法不思議」という世界観
いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり
本文にはこうあります。
「五つの不思議の中で、仏法不思議ほど不思議なものはない」
いやほんま、仏法って“説明した瞬間に説明しきれへん”世界です。
「どうして助かるんですか?」
「南無阿弥陀仏やからや」
「なぜ南無阿弥陀仏が効くんですか?」
「それが不思議やねん」
“幽霊の正体わからんままの方が怖い”の逆パターン。
正体がわからんまま救われる…という奇妙な世界。
で、この“不思議”の正体こそ、
弥陀の弘誓(=本願)
阿弥陀さんが「絶対助ける」と誓ったから助かる。
理由はそこだけ。
こっちの善悪・成績・精進は“参考記録”にもならん。
◆14〜16首──二つの回向:往相と還相
弥陀の回向成就して
往相還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
往相の回向ととくことは
弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば
生死すなわち涅槃なり
還相の回向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなわち諸有に回入して
普賢の徳を修するなり
ここからが本題。
●往相の回向(おうそう)
→ 阿弥陀さんが私を浄土へ送り出す力
言うたら、“宇宙ロケットの第1段”。
地球(=生死)から脱出させてくれる。
本文にこうあります。
「信行をえしむれば、生死すなわち涅槃なり」
ここでの信(=他力の信心)は、自分の気合いや決意ではなく、
「あ、ほんまに私を助けきるつもりなんやな…」
と胸の底がストンと落ちる、あの不思議な転換。
それが往相の力やと。
●還相の回向(げんそう)
→ 浄土に生まれたあと、こっちへ帰ってくる力
“第2段ロケット”やね。方向は逆向き。
「えっ、せっかく浄土行ったのに、戻ってくんの!?」
…と思うやろ?
戻ってきます。
なぜって?
“助かった人間は、
助けたくなる”から。
これを本文はこう言います。
「利他教化の果をえしむ」
「普賢の徳を修するなり」
つまり、あの立派な菩薩の姿になって、迷いの世界に戻り、困ってる人を導く。
真宗では、ここをきわめて“静かに・さらっと”言いますが、内容はとんでもないスケールです。
◆17〜18首──曇鸞大師の名言が凄すぎる
論主の一心ととけるをば
曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが
他力の信とのべたまう
尽十方の無碍光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
ここで曇鸞大師が出てきます。
「煩悩成就の我らが“他力の信”」
煩悩まみれの私らにあるのは“自力の信心”やなく、阿弥陀さんが届けてくれた“他力の信心”やと。
そして最後はこう締めくくられます。
「無碍光は、一念歓喜する人を
必ず滅度にいたらしむ」
一念歓喜──
「ああ、阿弥陀さんってほんまやったんや…」
と胸が震える、あの一瞬のこと。
その一瞬を、永遠の涅槃まで持っていってくれるのが阿弥陀さん。
やっぱり不思議。
でも、これが“仏法不思議”。
◆回向は弥陀の“二段ロケット”
・往相:私を浄土に送り出すロケット
・還相:浄土から再び戻すロケット
・どっちも操縦席は阿弥陀さん
・乗客は私
・燃料は本願
そら、こっちはただ乗って「ナンマンダブ」言うだけでええわけです。
今日もまた、「ようこんな仕組み考えてくれはったなぁ…」と、阿弥陀さんに驚嘆しつつ。
ではまた、ゆるゆる語りましょう。
蓮夏一照でした。