皆さんこんにちは。蓮夏一照です。
今回紹介するのは、浄土教の歴史の中でも
“方向転換”のスケールがえげつない男、曇鸞和尚。
これがまた、めちゃくちゃおもしろい。
だって、「仙人になる気満々で修行してたのに、仏教の先生に出会って、経典をぜんぶ燃やした」
こんなん、どう考えてもただ者やない。
●仙経を丸焼きにした曇鸞、ここに爆誕
本師曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき
和讃の冒頭はこうです。
「仙経ながく焼き捨てて、浄土に深く帰せしめき」
普通、修行の本なんて、
せいぜい本棚の奥にしまうか、メルカリ行きですよ。それを曇鸞和尚は——
🔥「仙経ぜんぶ燃やしたろ!」
いやいやいや、思い切りが良すぎる。
これはある種の“悟り”というより、人生の“断捨離”が豪快すぎた人です。でも、これが後々の浄土教学の大転換につながるんだから、人生何があるかわからない。
●四論を捨てて、本願一本に切り替える
四論の講説さしおきて
本願他力をときたまい
具縛の凡衆をみちびきて
涅槃のかどにぞいらしめし
次の和讃。
「四論の講説さしおきて、本願他力をときたまい」
四論=難しい哲学の議論
本願=あらゆる人を救う阿弥陀の誓い
つまり曇鸞和尚、こんな感じ。
「むずかしい講義はもうええわ。
せやけど“本願”は絶対外したらあかん」
学者から急に“ほんまモンの道案内人”に転職したようなもんやね。
●皇帝の質問「なんで極楽って西にあるんや?」
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆえをとう
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある
鸞師こたえてのたまわく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
魏の皇帝が訪ねてきてこう聞く。
「十方に浄土ある言うのに、
なんで西やねん?」
これがまた実に人間らしい質問。
で、曇鸞和尚の答えがカッコ良い。
「わしの智慧は浅いから、念力(悟りの力)がまだそっちまで届きませんねん」
これ、めちゃくちゃ謙虚。いや、謙虚すぎて逆に皇帝が恐縮するパターン。
「西や東や言う前に、あんたもわしも“帰る道”はただひとつでっせ」
と暗に言ってるわけやね。
●「帰るところはここしかない」曇鸞の決断
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
次の和讃。
「帰すべきところぞさらに無し」
曇鸞が“決めた”瞬間です。
仙人の道も、哲学の道も、論理の道も全部捨てて、
「本願の道、ここしかない」
その覚悟たるや、半端じゃない。
これは僕の好きなセリフで言えば、
「行く先いろいろあるように見えて、実は“道はひとつしかなかった”って話や」
まさにそれ。
●政治も巻き込む人気僧——大巌寺から汾州へ
魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおわしける
ようやくおわりにのぞみては
汾州にうつりたまいにき
曇鸞和尚は人気がありすぎて、魏の皇帝がわざわざ寺を指定して住まわせる。
「あんた、そこに住んでくれへんか」
「えー…まあ、ええですけど」
そして最晩年は落ち着いた土地・汾州へ。
ここが曇鸞思想の大成の場所になる。
■法話
●(A)曇鸞の核心:
「自力を焼き払い、他力に帰る」
仙経を焼いたのは象徴的。
それは“自分の力で悟る”という執着を焼却処分したという意味でもある。
●(B)「本願をとる」という決断
曇鸞が言う「帰すべきところはここしかない」は、親鸞聖人の
「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」
に直結します。
自力の道がどれだけ華やかでも、人間は全然そこに到達できない。
だから——
「本願」という“帰る場所”に帰れ。そこだけは崩れないから。
曇鸞はそう言ったのです。