皆さん、“生死の苦海”って聞いたことあります?

これ、仏教的には「人生という名の海」。

荒波は仕事、向かい風は人間関係、時々サメのように襲ってくるのは老病死。

で、そんな大荒れの海のど真ん中で、仏教はこう歌うんです。

「弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせて必ずわたしける」


……なんや、もう初っ端から“フェリーで渡れるんかい!”てツッコミ入れたくなりますわね。

でもこれ、比喩じゃなくてガチなんです。


●“弥陀丸フェリー”が迎えに来る世界

生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける

龍樹菩薩によると、人生という海は 「泳ぎ切るのは無理筋」

「ワシらは水泳教室の初級コースで溺れかけてるのに、向こう岸まで横断せぇって、そりゃ無茶やろ」


ところが阿弥陀さんはこう言う。

「せやからフェリー出したんや。乗りぃ」


これが 弘誓の船(本願のはたらき)

乗り方は簡単で、南無阿弥陀仏と“呼ばれたことに気づく”だけ。


●そして龍樹の仲間“菩薩界の官僚”

智度論にのたまわく
 如来は無上法皇なり
 菩薩は法臣としたまいて
 尊重すべきは世尊なり

智度論の言葉として和讃に出ます。

「如来は法皇、菩薩は法臣


つまり、

●仏=大統領

●菩薩=官僚

みたいなもん。

こっちは事務作業であたふたしてるのに、菩薩さんたちは何千年スパンで“救いの政策”を練ってはる。

一切菩薩ののたまわく
 われら因地にありしとき
 無量劫をへめぐりて
 万善諸行を修せしかど

恩愛はなはだたちがたく
 生死はなはだつきがたし
 念仏三昧行じてぞ
 罪障を滅し度脱せし

で、その菩薩たちはこう言います。

「ワシら、無量劫ほど努力したけど生死は切れんかったわ」


「一生懸命頑張ったけど、積立NISAが溶けました」


みたいな虚脱感。でもその後がすごい。

「念仏三昧行じてこそ、度脱した」


つまり、菩薩レベルでも自力だけではこの人生の輪回は断ち切れず、念仏によって抜けた。

これ、我々にむちゃくちゃ勇気くれますやん。


●そして天親菩薩が登場(仏教史の主演級)

釈迦の教法おおけれど
 天親菩薩はねんごろに
 煩悩成就のわれらには
 弥陀の弘誓をすすめしむ

天親菩薩(ヴァスバンドゥ)は、龍樹と並ぶ“二大スーパースター”。

親鸞はこう歌います。

「煩悩成就のわれらには、弥陀の弘誓をすすめしむ」


この“煩悩成就”というのがまたすごい。

「あなた、煩悩まみれでよろしい。そのまま弥陀さんに任せなはれ」


という究極の肯定。


●天親の世界観は「宝の海」

安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし

本願力にあいぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし

続きの和讃にはこうあります。

「功徳の宝海みちみちて

 煩悩の濁水へだてなし」


「阿弥陀さんの海は宝石だらけ。

 こっちの泥水(煩悩)も、境目なく吸い込んで浄化されるで」


つまり、

●煩悩は障害ではない

●むしろ救われる“入口”になる

●本願力にあえば、一人もむなしく過ぎない

これが天親菩薩のコアメッセージ。

■龍樹→天親→親鸞へ流れる一本の道

龍樹は、「生死の海は船で渡れ」と言い、

天親は、「その船は宝の海へ運ぶ。煩悩は沈む原因やなくて、救われる理由や」と言い、

親鸞聖人は、「その宝の海にあなたもすでに包まれている」と明かされた。

南無阿弥陀仏とは、その“包まれた事実”に気づく声です。


■最後に一照より

今日もいろいろしんどいあなたへ。

龍樹菩薩はこう言うでしょう。

「溺れるのは下手やからやない。海が深すぎんねん。せやから阿弥陀さんの船にまかしとき」


天親菩薩はこう続ける。

「その船は、宝の海へ真っすぐ行くで」


その声が、あなたの一日の息継ぎになりますように。


また続きをご一緒しましょう。