●「この世の利益、きわもなし」って……どんだけ?


南無阿弥陀仏をとなうれば

この世の利益きわもなし

流転輪回のつみきえて

定業中夭のぞこりぬ


まずこれ。

つっこませてください。

「きわもなし、てアンタ……限界なし言うてますけどほんまかいな」


でも和讃は本気です。念仏すると、

●先祖代々の罪(流転輪回)が軽くなる

●短命になる定業が消える

つまり、寿命を縮める因縁が“上書きされる”

これはもう、運命のバグ修正パッチみたいなもんです。

●梵天・帝釈が「よろしくお願いします」?


南無阿弥陀仏をとなうれば

梵王帝釈帰敬す

諸天善神ことごとく

よるひるつねにまもるなり


南無阿弥陀仏と称えたら――

●この宇宙のトップ(梵天)

●天界のリーダー(帝釈天)


が、こっちに向かって深々とお辞儀してくる


……という、とんでもない設定。


「町内会の挨拶どころか、国連の代表団が来よった!」てなもんです。

でも真宗的にポイントはここ。

守るのは“念仏者の徳”じゃなく“名号のチカラ”やで

だから凡夫の自慢話にはならへんのです。

●四天王まで出動


南無阿弥陀仏をとなうれば

四天大王もろともに

よるひるつねにまもりつつ

よろずの悪鬼をちかづけず


四天王って、東西南北それぞれを守る最強クラスの護法神。彼らが全員そろって、

「おーい阿弥陀さんの縁の者や!通したれ!」と念仏者の護衛につく。

これ、例えるなら――

「駅前でチンピラに絡まれかけた時、突然、交番・警備員・白バイ・消防隊まで集まってくるレベル」

阿弥陀の名号は、それくらいの“招集力”があるわけです。

●地の神、龍神、冥界までも味方に

●堅牢地祇(地の神)が守る


南無阿弥陀仏をとなうれば

堅牢地祇は尊敬す

かげとかたちのごとく

よるひるつねにまもる


「地そのものが味方」という表現。まるで大地のWi-Fiが常時ONになってるような安心感。

●龍神まで総動員


南無阿弥陀仏をとなうれば

難陀跋難大龍等

無量の龍神、尊敬し

よるひるつねにまもるなり


天気も水も“龍神の管轄”。昔の人にとっては、“生活インフラの守護者”です。

ということは――

南無阿弥陀仏=インフラ守護祈願にもなる

なんて汎用性。

●さらには“閻魔さま”も尊敬?


南無阿弥陀仏をとなうれば

炎魔法王尊敬す

五道の冥官みなともに

よるひるつねにまもるなり


閻魔さまが“守る側”に回るというのは、仏教世界の常識をひっくり返す話。

「あのおっかない奉行所の泣く子も黙るお代官が、なんでか知らんけど急にアンタの側につくようになった」みたいなもんです。


■法話

では、この“護衛ラッシュ”が意味するところとは――

① 念仏者が偉いのではない

守っているのは「名号の徳」。念仏者の人格ではない。真宗はここを絶対にズラしません。

「守られるのは、あなたが立派だからやなく、阿弥陀の本願が立派だからです」


だから安心。

② 守護神の名前は“現象”の象徴

仏教の神々は、自然現象・社会秩序・心の安定の象徴。つまり、

●不安を鎮め

●災難を遠ざけ

●心身を整え

●命を護る

この一切の働きを「南無阿弥陀仏」が引き寄せる。

③ 現世利益は“真宗のオマケ”ではない

決して“死後の救いだけ”ではなく、念仏はこの世の暮らしにも風を通す。

「念仏は死後のためにあらず、ただ今の生活に自然の利益あらたなり」

■最後に——

もし今日も心がざわついたら、ひとつ深呼吸して、そっと称えてみてください。

南無阿弥陀仏


すると不思議と、“なんか大丈夫ちゃうか”という風が、胸の奥にサァーッと通っていく。

それこそが“現世利益”のはたらきです。