■(1)真っ暗闇に、いきなりハイビームの仏
無明の大夜をあわれみて
法身の光輪きわもなく
無碍光仏としめしてぞ
安養界に影現する
世の中、暗い話多いでしょう。
ニュース開いたら溜め息、SNS見たら不安になる。もう“無明の大夜”って、令和のこと言うてるんちゃうか思うほど。
そんな真っ暗な夜道に、急にハイビームで照らしてくれるのが 無碍光仏。
「あんたの行く道、ワイが照らしたるわ」という、心強い“光の仏”。
しかも、ただ照らすだけやなくて、「絶対に遮れへん光」っていうんやから強烈。
無明の霧の中でも、ふっと心が軽くなる瞬間ってあるでしょ?
あれ、だいたいこの無碍光の仕事です。
■(2)阿弥陀は“釈迦”として現場に降りてきた
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
ここ、めっちゃ大事。
阿弥陀さんは本来“久遠の仏”。
しかし凡夫があまりにどうしようもないので、「しゃあない…直接行って説明したろ」と、釈迦として現場に降臨。
…なんか、部下に任せられん仕事を社長自らやりに来たみたいな展開(笑)
五濁の世を“見にくる”んちゃうんです。
「救うために行く」んです。
阿弥陀の本気度がうかがえますな。
■(3)どれだけ褒めても、褒めきれへん
百千倶胝の劫をへて
百千倶胝のしたをいだし
したごと無量のこえをして
弥陀をほめんになおつきじ
これ、「弥陀の功徳は褒めても褒めても足りへん」という和讃。
百千倶胝(ひゃくせんくてい)って、もう“ゼロいくつやねん”レベルの数。
「生まれ変わって100億回ほめても、まだほめ足りん。どんだけスゴいねん!」
阿弥陀の偉大さを聞くと「そんな大げさな…」と思いがちですが、凡夫から見たら 想定外の慈悲 なんですね。
■(4)浄土を疑うと“無眼・無耳”扱い!?
大聖易往とときたまう
浄土をうたがう衆生をば
無眼人とぞなづけたる
無耳人とぞのべたまう
釈迦さんの言葉は厳しい。
浄土を疑う人は「目ぇない」「耳ない」とまで言われる。
でもこれ、怒ってるんやないんです。
「あなた、救われる道を見失ってるで…」
「耳はあっても、大事な声が聞こえてへんで…」
という、めっちゃ“親身な叱り方”。
「おまえアホやなあ、こっち来いや」
と言った後にちゃんと手を引っぱってくれる優しい師匠みたい。
■(5)“真解脱”とは、疑いも執着も落ちること
無上上は真解脱
真解脱は如来なり
真解脱にいたりてぞ
無愛無疑とはあらわるる
“無愛無疑”って言葉、すごい。
愛が無いんやない。執着が無いんです。
疑いが無いんやない。迷いが無いんです。
真解脱とは、人間の“こだわり地獄”を抜けた状態。凡夫には無理やけど、浄土でかならず実現する。
■(6)“平等の心”=一子地(いっしじ)
平等心をうるときを
一子地となづけたり
一子地は仏性なり
安養にいたりてさとるべし
“一子地”とは、すべての存在を「ひとつの子」と見る心。
「嫌いな人も、うっとおしい人も、『あぁ、この人も仏さんの子やねんな…』と見える境地」
凡夫には当然ムリ。
でも浄土ではそれが“自然に”開ける。
だから「仏性は成るもんやなく、開かれるもん」というのが浄土の道。
■まとめ
●無明の夜には“無碍光”が差し込む
●阿弥陀は釈迦として現場に降りた
●どれだけ賛嘆しても尽きない慈悲
●浄土を疑うのは「目と耳を閉じてる」状態
●真解脱は無執着・無疑の世界
●仏性(一子地)は浄土で必ず開く