■(1)“見守り力”が規格外すぎる仏


十方微塵世界の

念仏の衆生をみそなわし

摂取してすてざれば

阿弥陀となづけたてまつる


阿弥陀さんの異名のひとつが摂取不捨(せっしゅふしゃ)。

「どんなアホでも、いっぺん抱えたら絶対に離さへんオカン」


しかも“十方微塵世界”ですからね。

十方(上下左右前後+四隅)全部の、粉みたいに細かい世界の粉みたいに細かい衆生まで、ぜーーーんぶ見てはる。

「見てるいうても限界あるやろ」

と思うやん?

阿弥陀さんの場合、その“見守り”が無限メモリのクラウド監視システム並み。

摂取してすてざる――「見つけたら最後、絶対に離さん」という、昭和のお父ちゃんでも言わんくらいの執念深さ。ありがたい言葉やけど、ちょっと怖いくらい(笑)


■(2)諸仏が口そろえて“努力否定”


恒沙塵数の如来は

万行の少善きらいつつ

名号不思議の信心を

ひとしくひとえにすすめしむ


“恒沙塵数の如来”というのは「数え切れんほどおる仏さま全部」という意味。

その仏さま方が…なんと…

「細かい努力や修行はもうええわ」

「あんたら、そんな器やないってわかってる」


と、めちゃくちゃ正直に言ってる(笑)

そのかわりにすすめるのが名号不思議の信心。

要するに、「ナンマンダブの力に任せなはれ」ということ。

万行の少善(ちょっとの良い行い)なんて

自力の世界では点数ゼロに近い。

仏さま方はみんな、“できへん凡夫”をよう知ってはるわけです。


■(3)仏界の全会一致で“念仏推し”


十方恒沙の諸仏は

極難信ののりをとき

五濁悪世のためにとて

証誠護念せしめたり


ここは壮観。

●阿弥陀

●釈迦

●薬師

●観音

●勢至

●過去仏

●未来仏

●無数の如来

全員が“念仏、本物やで”と証拠のハンコ押してくれはる。

五濁悪世の衆生=つまり私ら凡夫には

「信じがたいほど簡単で、

 理解しがたいほど深い」


これが 極難信の法。

でも諸仏は“そこを信じるのがいちばんの早道や”と口をそろえる。

もはや 仏界の総選挙で1位が念仏と言うてもええ(笑)


■(4)金剛心を得る=「落ちることがなくなる」


諸仏の護念証誠は

悲願成就のゆえなれば

金剛心をえんひとは

弥陀の大恩報ずべし


金剛心とは

折れへん信心

壊れへん信心

のこと。

「阿弥陀の本願にまかせる」

その“一念の心”を得たとき、人生の上がり下がりに左右されへん“本願の軸”が自分に通るという境地。

「大恩報ず」とありますが、それは“お返しするために徳を積め”ではない。

念仏もうすことそのものが「恩返し」ですよという、限りなく優しいメッセージ。


■(5)五濁悪世の“ひねくれた凡夫”にこそ届く声


五濁悪時悪世界

濁悪邪見の衆生には

弥陀の名号あたえてぞ

恒沙の諸仏すすめたる


五濁・悪時・悪世界――

これは現代日本そのまんま。

・ストレス社会

・人間関係の摩擦

・SNSでの分断

・自己否定の増幅装置

・未来への不安

そんな時代に生きる人に何を仏は与えるか。

ナンマンダブ(名号)ひとつ。

修行も、資格も、徳もいらない。

ただ名号を“届くように”置いてくれた。

諸仏が全員すすめてくれてるのは、凡夫の現実を知り尽くしてるから。

「今の時代ほど念仏の射程に入る人間はおらん」


これは、実はものすごく救いのある言葉やね。

■まとめ

●阿弥陀は「摂取してすてざる」存在

●諸仏は“自力の少善”ではなく“名号の信心”をすすめる

●五濁の世こそ、名号の働きがいちばん強い

●落語のように情けなくても、そこに本願が届く