■刃物を抜いた理由が“勘違い”

阿闍世王は瞋怒して

我母是賊としめしてぞ

無道に母を害せんと

つるぎをぬきてむかいける


観経の主役級・阿闍世王子。まあ、とにかくキレやすい。

「母も父と同じ、敵や!」

とんでもない誤解から刀を抜く。

「おかんの料理の味が薄いからって“毒盛られた”と騒ぐ息子」


くらいの勘違い。けれど、阿闍世の凄いところは“キレた瞬間に命がけ”になるとこ。

凡夫の煩悩がMAXまで吹き出した姿やね。

■そこへ出てくる名医・耆婆(ぎば)

耆婆月光ねんごろに

是旃陀羅とはじしめて

不宜住此と奏してぞ

闍王の逆心いさめける


この耆婆(ぎば)大臣・名医・賢者。あらゆるパーティーに入れる万能キャラ。

「キレてる王子のとこに、“ちょっと落ち着きなはれ”と入ってくる近所の世話焼きおっちゃん」


そして阿闍世に伝える。

「その怒り、方向違ごてまっせ」

「母を殺したら、王子として終わりやで」

■なんとか刃物を収めさせる

耆婆大臣おさえてぞ

却行而退せしめつつ

闍王つるぎをすてしめて

韋提をみやに禁じける


刀を引っ込めたのは奇跡みたいな瞬間。でも、そこからがまた地獄。阿闍世、母を牢屋にブチ込む。

「殺すのはやめたけど、許す気はない」


…これ、めっちゃ人間らしい反応やないですか。怒りは消せへん。でも、完全に踏み外したくもない。凡夫の“半端な善悪”がここに丸見え。

■ここから“仏の仕掛け”が動き出す

弥陀釈迦方便して

阿難目連富楼那韋提

達多闍王頻婆娑羅

耆婆月光行雨等


登場人物が一気に増えます。

・釈迦

・阿難

・目連

・韋提希夫人

・阿闍世

・耆婆

・そして、悪役の達多(デーヴァダッタ)

ここでのポイントはひとつ。

“全員そろって法縁の舞台が整った”

釈迦がいわば

“光の当て方を完璧に調整した”瞬間。

■逆悪も、仏の“お迎えの糸”の中

大聖おのおのもろともに

凡愚底下のつみびとを

逆悪もらさぬ誓願に

方便引入せしめけり


阿闍世の逆罪、達多の破僧罪…正直言って、救われるような人らやない。でも釈迦は言う。

「逆悪こそ本願の射程距離の中心や」


まるで

「汚れが強い服ほど、洗剤が一番はたらく」


みたいな逆説。親鸞聖人の言葉で言えば

悪人成仏のための願


ここに観経ドラマの核心がある。

■母子の因縁は“信心を生む舞台装置”だった

釈迦韋提方便して

浄土の機縁熟すれば

雨行大臣証として

闍王逆悪興ぜしむ


阿闍世が悪を起こしたのは、偶然とか衝動やない。仏眼から見れば、

「この逆心が、韋提希の“浄土を願う心”を熟させた」

つまり、

●罪をつくる人

●悲しむ人

●それを見守る仏

三者が“縁”となって浄土への願いが熟すようにできてる。

「全部の伏線が一気に回収される回」

■最後に、私たちへの“直球のメッセージ”

定散諸機各別の

自力の三心ひるがえし

如来利他の信心に

通入せんとねがうべし


こここそ要点。

阿闍世の怒りも、韋提希の悲しみも、耆婆の忠義も、釈迦の慈悲も、全部ひっくるめて一つの結論に向かう。

自力の心(自分で整えよう・自分で清めよう)を仏にひっくり返されること。

如来からさずかる“利他の信心”に通入すること。


阿闍世事件は、「人間のどうしようもなさ」+「仏のどうにも止まらぬ慈悲」が正面からぶつかったドラマなんです。

■まとめ

●阿闍世の逆罪は“救いの外側”ではなく“中心軸”

●耆婆の忠言も、韋提希の苦悩も、みな善知識の働き

●釈迦はすべてを利用して“本願を信じる心”を育てた

●自力の三心を“ひっくり返される”ところから信心が始まる