■善知識との出会いは“奇跡の三連単”

善知識にあうことも

おしうることもまたかたし

よくきくこともかたければ

信ずることもなおかたし


これ、めちゃくちゃリアルな“救いの難易度表”です。

(1)善知識に会うのが難しい

(2)その人が教えてくれても、聞くのが難しい

(3)聞けても、わかるのが難しい

(4)わかっても、信じるのはもっと難しい

「まず人気の師匠に会うのが難しい、

 会っても喋ってくれるとは限らん、

 喋っても理解できるかわからん、

 理解しても“腹で納得”はまた別や」

ここに親鸞聖人の体験がにじむんです。

■“一代の諸教より難しい”とはどういうこと?

一代諸教の信よりも

弘願の信楽なおかたし

難中之難とときたまい

無過此難とのべたまう


釈迦の全教えの中で、一番むずかしいのは「阿弥陀さんの本願を信じること」やとおっしゃるんです。

そらそうです。

だって、「あなたはそのまま救われるんですよ」と聞いた瞬間、「いや、そんなことあるかいな」「この私が? いやいやいや……」と、人間は自力心で否定してまう。

「ラーメン屋の大将に“無料でええで”言われたら、逆に『裏があるんちゃう?』って疑ってまうアレ」です。

阿弥陀さんの救いはむずかしいんじゃない。“人間が勝手に難しくする” のです。

■「念仏成仏これ真宗」=道は一本

念仏成仏これ真宗

万行諸善これ仮門

権実真仮をわかずして

自然の浄土をえぞしらぬ


●「南無阿弥陀仏」で救われるのが“真宗”

●いろんな善行は、あくまで“仮門(準備段階)”

「商店街の道、いろいろあるようで、最終的にはみんな“駅前ロータリー”に出るんや」仮門はいわば“下道”。念仏は“高速一本道”。でも、真門(本願)と仮門(自力)を混ぜてしまうと迷う。


これが親鸞聖人の鋭さ。

■“聖道門に長年つかまる”という悲劇

聖道権仮の方便に

衆生ひさしくとどまりて

諸有に流転の身とぞなる

悲願の一乗帰命せよ


聖道門=自力で悟ろうとする教え。この道に長く留まると、人は迷いの世界をぐるぐる回る(流転)しかない。

「地図アプリ見ながら自力で行こうとして、逆に迷ってタクシー呼んだら一瞬で着く、あれです。」

阿弥陀さんの道は“悲願の一乗”。

乗ったら必ず浄土へ連れていく“直行便”。

■観経のドラマは“救いは絶望の中から始まる”という証明

恩徳広大釈迦如来

韋提夫人に勅してぞ

光台現国のそのなかに

安楽世界をえらばしむ


観経の舞台は、家庭崩壊の極み。

王子は父を殺そうとし、母・韋提希夫人は幽閉され、国中が血の匂いで満ちる。

「もうこの家、どこから片付けてええかわからん!」

みたいな地獄絵図。


そんな中で、釈迦は“光のスクリーン”にいくつもの浄土を映し出す。そして夫人に言います。

「好きなとこ選び。どこへ生まれたい?」


現代やったら、

「この暗闇の中にも、あなたが向かうべき光がある」


と言ってるようなもんです。

■絶望の中でも光は差す

頻婆娑羅王勅せしめ

宿因その期をまたずして

仙人殺害のむくいには

七重のむろにとじられき


王が苦しみ、夫人が泣き、闇しか見えない状況。ところが、ここで 阿弥陀の本願が“選択”される。

どうして?親鸞聖人が言います。

「どこまでも墜ちる身やからこそ、本願は“まっすぐ届く”のや」

「底打ったら、あとは上がるだけや」


観経のドラマは、苦しみの真ん中で光が開くという“救いのストーリー”そのもの。

■まとめ

●善知識に会う・聞く・理解する・信じる

 →どれも簡単ではない

●弘願の信楽は、仏教の中で最もむずかしい

 →“難しい”のではなく、人の側が疑うから

●念仏が真門、諸善は仮門

 →救いは名号に凝縮されている

●聖道門は流転の世界を出られない

 →阿弥陀さんの一乗に乗るしかない

●観経のドラマは「絶望の中からの救い」の象徴

●阿弥陀の光は、闇の中の人からこそ、もっとも強く届く


親鸞聖人が伝えたかったのは、「救いは遠くない。ただ、人間が自分で遠ざけているだけだ」ということ。だから、

南無阿弥陀仏と称えるところに、“難中の難を越える道”が開ける。