■13. あらゆる善は“浄土行きのエレベーター”


諸善万行ことごとく

 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の

 善とならぬはなかりけり


これ、すごい話です。

「どんな善行も、浄土への“導きのきっかけ”にならへんもんは無いで」

つまり、

“善行ぜんぶ、阿弥陀さんが救いの入口にしてしまう”

「商店街の店全部、駅直結にしてもうたんか!?どの店に入っても浄土行きに繋がるやん!」

阿弥陀さんの“回収力”のすごさよ。

■14. 名号は「救いの本丸」


至心回向欲生と

 十方衆生を方便し

 名号の真門ひらきてぞ

 不果遂者と願じける


阿弥陀さんは、まず“衆善の入口”で人を導く。でも最終的には、

「名号(南無阿弥陀仏)こそが、本願の真ん中やで」

と本門を開く。

「最初は無料クーポンで客を呼んで、最後は“看板メニュー”で勝負する、あの手や」

しかも“不果遂者(まだ果を得ない人)”のために用意してあるという徹底ぶり。


■15. 果遂の願=「必ず悟りに到らせる」


果遂の願によりてこそ

 釈迦は善本徳本を

 弥陀経にあらわして

 一乗の機をすすめける


“果遂(かすい)”とは、

「必ず悟りの果に到らせる」

という願。

釈迦はその願のすごさを説明するために

『阿弥陀経』で諸々の善や徳を語り、

あらゆる機根の人を“一乗”に誘った。

「電車は急行も快速もあるけど、 最終的には全部“涅槃行き一乗”に合流するで〜」

■16. 定散の自力称名も、最後は“本願に合流”


定散自力の称名は

 果遂のちかいに帰してこそ

 おしえざれども自然に

 真如の門に転入する


自分の力での念仏(定散の称名)も、最終的には“果遂の誓願”の中に回収され、“真如の門”に入る。

「なんやかんや自力で頑張ってても、最終的には阿弥陀さんの“自動ドア”に吸い込まれんねん」

本人が気づかんでも、自然に本願に合流してしまう。


■17.「浄土行き」願いつつ信心を得ないと…?


安楽浄土をねがいつつ

 他力の信をえぬひとは

 仏智不思議をうたがいて

 辺地懈慢にとまるなり


浄土を願っていても、“仏智の不思議”を疑うと、辺地(浄土の周縁部)にとどまる。

「浄土ツアーの案内所までは来たけど、『ほんまに飛行機飛ぶんか?』って疑って、空港ラウンジで一生待ってる人みたいなもんや」

本願を信じきれない“ためらい”が、

救いの中心から自分を遠ざけてしまう。


■18. 仏、法、菩薩に出会うことは“宇宙的レア”


如来の興世にあいがたく

 諸仏の経道ききがたし

 菩薩の勝法きくことも

 無量劫にもまれらなり


これは“レア度”の話。

●仏に出会う

●仏の教えを聞く

●菩薩の深い教えに触れる

これ全部、無量劫レベルの希少イベント。

「希少カードどころやない。もはや“世界に一枚しかない激レア”や!」

そんな希少機会のど真ん中で、あなたは今、浄土の法を聞いている。

■まとめ

●あらゆる善は“浄土への入口”にされている

●名号が“救いの本門”

●信心をえたら必ず悟りへ到る

●自力称名も最後は本願に包まれる

●信心がなければ周縁部(辺地)にとどまる

●仏の教えを聞くこと自体が“無量劫にまれ”

つまり──

阿弥陀さんの救いは、どこからでも乗れる“完全フリーパス”。

ただし信心の“乗車券”だけは阿弥陀さんからもらうもの。

この仕組みがわかると、浄土真宗の世界が一段深く、明るく見えてきます。


南無阿弥陀仏。