■宝林で鳴っとるんは、自然発生のライブやで
宝林宝樹微妙音
自然清和の伎楽にて
哀婉雅亮すぐれたり
清浄楽を帰命せよ
宝林宝樹微妙音
自然清和の伎楽にて
哀婉雅亮すぐれたり
浄土の宝の林からは、それはもう“この世の音楽を全部合わせても敵わへん”ほどの
微妙な音が自然に流れてるんやと。
要は、「スピーカーも楽器もいりません、自然そのものが名演奏家です」という世界。言うならば、
「風が木に当たったら“モーツァルト”、
鳥が飛び立ったら“ジャズ”、
宝樹が揺れたら“クラシック”」
いや、浄土はブルーノートもグラミーも超越してる。
■七宝樹林、光りすぎて“ディスコ超えて光明界”
七宝樹林くににみつ
光曜たがいにかがやけり
華菓枝葉またおなじ
本願功徳聚を帰命せよ
七宝樹林くににみつ
光曜たがいにかがやけり
国じゅう七宝の木がぎっしり生えてて、
お互いに光が反射しあってる。
むちゃくちゃ明るい。
いや、明るいを超えて“ほがらか”。
ここに一言ツッコミ。
「電気代、ゼロやな」
仏の国の光源は、
LEDどころか、宝そのもの。
■宝樹を風がふくと“宮・商・和”…?
清風宝樹をふくときは
いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり
清浄勲を礼すべし
清風宝樹をふくときは
いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり
宮(きゅう)・商(しょう)というのは、
昔の音階の名前。
つまり、「風が吹いただけで、浄土は完全なる和音を奏でる」
訳すと─
「風が“ひゅ〜〜”でなく、
“ドミソ〜〜♪”と吹く世界」
これはもう自然災害じゃなくて、自然芸術。
■一つの花から光が3600兆発…?
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の光明てらし
3600億×1000?
いや、単位の感覚が完全に壊れてる。
これはもう、「花びらの一枚で地球照らせる」レベル。
言うてしまうと──
「この花、街灯10万本分ですわ」
■しかも、花の中から仏が36百千億体…?
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身もひかりもひとしくて
相好金山のごとくなり
三十六百千億の仏身もひかりもひとしくて
相好金山のごとくなり
花の中に“光明と仏身”がセットで出てくるんですって。
しかも全部が黄金の山みたいに輝いてる。
いやいやいや。
「花から仏が出る」って、
それ完全に“和風マトリョーシカ”やん。
しかも一体やない、36百千億体!
■その仏たちが、常に妙法を説いている
相好ごとに百千の
ひかりを十方にはなちてぞ
つねに妙法ときひろめ
衆生を仏道にいらしむる
つまりこういうこと。
「花から光が出て、その光の中から仏が出て、その仏がまた光を出して教えを説く。」
光→花→仏→光→教え……
何重にも救いが重ねてやってくる。
これが“清浄勲(くん)”という荘厳やというわけ。
■浄土にあるのは”派手さ”やなく”方向性の統一”
これらの和讃、すべてに共通するのは──
「浄土は調和そのもの」
・宝樹の音は自然と和する
・光明は互いに照らしあう
・花は光と仏を生みだす
・仏はまた法を広める
・その光は全方向に行き渡る
これらすべてが、阿弥陀仏の本願から流れ出た“ひとつの働き”ということ。
親鸞聖人が、「浄土は、阿弥陀の願心そのもの」と味わわれたその世界を、
法然聖人も、善導大師も、そしてこの和讃も、あらゆる角度から見せてくれる。
つまり浄土の世界は、派手なだけやなく、
「いのちはこうあるべき」という調和の理想像。
だからこそ、その名号を我が身にいただくことは、“調和の世界への参加資格”をそのまま得ることなのです。
南無阿弥陀仏。
今日もまた、その響きを胸に。