どうもどうも、蓮夏一照でございます。

本日は、「阿弥陀さんのパワーってどれくらいなん?」という、慎ましくも大胆なテーマでございます。

いや、これね、端的に言うと──

人間の想像なんぞ、ぜ〜んぶ追い越してしもてる。これが正解です。

■まずは“神力自在”のお話を一席

神力自在なることは
 測量すべきことぞなき
 不思議の徳をあつめたり
 無上尊を帰命せよ


さて、仏さまの「神力自在」。

これはもう、出てくるたびにサプライズしてくるトリックスター。

測れるか? 測れんのか?

──いや、無理や。

あなたが最新のiPhoneで測量アプリ立ち上げても、仏さまはスッ……と画面の外に抜けてしまう。

「はい撮られへん〜、もっとがんばりや〜」

この“測量不能さ”が、まず圧倒的なんですわ。


■安楽の菩薩衆はみな“同じ姿”

安楽声聞菩薩衆
 人天智慧ほがらかに
 身相荘厳みなおなじ
 他方に順じて名をつらぬ

顔容端正たぐいなし
 精微妙躯非人天
 虚無之身無極体
 平等力を帰命せよ


次に、「安楽声聞菩薩衆」。

これまたキラッキラでございます。

全員がイケメン・美女、しかも同じ顔。

美容整形どころの騒ぎちゃいます。

人天の智慧は晴れ晴れ、身相は整いきって、非人天(=人間レベルでは測れん身体)でございまして。

まぁ簡単に言うと──

「悟った者ばかりが揃う“阿弥陀サロン”」

とでも言うたらよろしいか。


■ここで本題:“正定聚”って何?

安楽国をねがうひと
 正定聚にこそ住すなれ
 邪定不定聚くにになし
 諸仏讃嘆したまえり


安楽国を願う人は「正定聚」に住む、とございます。

これね、「この人、もう絶対に仏になるレーンに入っとるで」という位置のこと。

ディズニーランドで言うたら

“ファストパスどころか、入口からいきなり最後尾にワープ”

みたいな状態。

しかもややこしいことに、そこには邪定も不定もおらんのです。つまり、迷う人ゼロ、迷子もゼロ、ややこしい人ゼロ。

極めて平和。

■じゃあ、どうすればその正定聚に入れるの?

十方諸有の衆生は
 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば
 おおきに所聞を慶喜せん


これが大事なポイント。

十方の衆生、つまり「こっち側のあっちゃこっちゃにいる凡夫」がですね、

阿弥陀さんの御名を聞き、

その如来の至徳を“ああ、これやったんか…”と信じ切った時、心の底からフッと喜びが湧いてくる。

この“フッと湧く一念の慶喜”こそが、

正定聚へ入る瞬間なんです。

落語で言うなら、噺の途中で急にオチが見えて、「あ、そういうことかい!」と腑に落ちるあの瞬間。

■「若不生者」の誓い、ここがキモ

若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ


阿弥陀さんの本願には

「もしそなたを生ましめずば、私は仏にならん」

という“若不生者の誓い”がございます。

つまり「絶対に連れてくで」と言い切ってはる。

この誓いを

「ほんまやったんか…」

と腑に落とした時が、一念の慶喜。

そして、その一念は──

往生、必ず決定。

ここ、大切なところなので二度言います。

往生、必ず決定。

■まとめ

ようするにですな。

我々は、「ああしなあかん」「こうせなあかん」と、毎日せわしない。

それが阿弥陀さんからしたら、

「いやいや、もう正定のレーン空いてますけど?」

という話なんですわ。

踏み込んだ瞬間に、そこはもう“仏になる方向にしか動かん道”。

そんな道を歩ませてもろてる──

これが本願念仏の、なんとも味わい深いところですわ。

■結び

阿弥陀の名号を聞き、

「確かに、これは私を捉えて離さない教えや」

と心が動くとき。

その時すでに、無碍光の照護の中。

一念の慶喜とは、自分が変わるというより、“照らされていたことに気づく”瞬間。

その気づきこそが、往生決定の証。

だから──

「気づいたら、ずっと照らされてた。

 ……なんや、最初から席あったんや。」


という、ちょっと笑えて、でも深い話なのでございます。