いやぁ皆さん、世の中って暗い話題が多いでしょう。
電気代の値上がりから、推しの結婚まで──
「暗くなる要素」は山ほどあるわけです。
そんな中、「光」だけをひたすら語り倒す聖人がいる。それが、阿弥陀さんですわ。
浄土真宗の和讃を読むたびに思うんですが、阿弥陀さんの光って、
性能盛りすぎちゃう?
ってくらいエグいんです。
■① 一回照らしたら業垢リセット
道光明朗超絶せり
清浄光仏ともうすなり
ひとたび光照かぶるもの
業垢をのぞき解脱をう
和讃にいうには、
「ひとたび光照かぶるもの 業垢をのぞき解脱をう」
これ、もうすごいでしょ。
スマホみたいに「初期化しますか?」って簡単に戻るんやないんです。
こっちが押したんやないのに、向こうから照らしてくる。ありがた迷惑…いや、ありがたすぎ。
■② 光の届くところ、法喜じわ〜
慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまう
大安慰を帰命せよ
さらに、
「ひかりのいたるところには 法喜をう」
とある。
これはもう、温泉旅館の大浴場に入った瞬間、「あ〜〜このために生きてたわ〜」って言いたくなる、あの“ほぐれ感”みたいなもんです。
阿弥陀さんの光は、人生のコリを全部ほぐす整体師みたいなもんですわ。
■③ 無明を破る圧倒的サーチライト
無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり
「無明の闇を破するゆえ 智慧光仏」
闇を破るって、
電気スタンドレベルの話ちゃいますよ。
例えるなら──
雲の上から照らす巨大サーチライト。
逃げても隠れても、容赦なく当ててくる。
「私なんか照らさんでええのに…」と思っても、照らされる。むしろそこを照らす。
阿弥陀さん、性格悪いんじゃなくて(失礼)、徹底してるだけなんです。
■④ 切れへん光・止まらん光・測れん光
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆえなれば
心不断にて往生す
仏光測量なきゆえに
難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ
弥陀の功徳を称せしむ
神光の離相をとかざれば
無称光仏となづけたり
因光成仏のひかりをば
諸仏の嘆ずるところなり
ここからが面白いんですよ。
和讃のネーミングが“厨二感”満載で。
- 不断光仏(止まらん)
- 難思光仏(測れん)
- 無称光仏(呼び名すら追いつかん)
もう、光の特化型ポケモンみたいな勢いです。
それを諸仏が横で見て、
「いや〜阿弥陀さん、やりすぎっすよ」
と嘆じてるわけです。
(褒めてるんか、引いてるんかは知らんけど)
■⑤【法話】
さて、ここからが核心。
阿弥陀さんの光は、私が「見たい時に見る光」やないんです。
「見たくなくても当たってしまう光」
つまり、自分から“善い人”として整える前に、向こうから照らされてしまう。
そこには「業垢があるから照らさへん」
という条件が一切ない。むしろ、
「業垢あるから照らすんや」
という逆転発想。これを親鸞聖人は、
「難思議」すなわち“思議を絶する”と受けとられたのでした。
だから浄土真宗は、「頑張って善人になりましょう」という教えやない。
“照らされてしまった者”の道なんです。
■まとめ
光の和讃を読んでると、
「あ、自分は暗いから照らされるんや」
これがしみじみ感じられる。
阿弥陀さんの光は、世間のスポットライトみたいに「頑張った人だけ当てる」んやなく、生きづらさを抱えた人にほど当たる
そんな“あたたかい光”なんですわ。
では次回も、
光に当たりながら笑っていきましょか。