お越しやす、蓮夏一照でおます。
今日は親鸞聖人の『和讃』の中でも、光のオンパレード、まるで“阿弥陀光明フェスティバルや!”と言いたくなる六首をネタに、ほのかに笑えて、じわっと染みるお話をば。
◆10劫目のベテラン店長
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり
最初の和讃に出るのが、
「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」
十劫(じっこう)て、どれくらいか。
“宇宙カレンダーで言うたら、地球の歴史なんて鼻くそ並み”みたいな時間ですわ。
そんな超ロングスパンで、
「光で照らし続けてます」
って、どんなブラック企業やねん、と思うけど──ブラックどころか、
「休み無し・疲れ無し・文句無し」
の、絶対残業代いらんタイプ。
だって“法身の光輪きわもなく”。
無限エネルギーやからね。
◆光、当たらん人ゼロ問題
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
次の和讃には、
「光暁かぶらぬものはなし」
とあります。
光が届かん場所ゼロ。
“Wi-Fi全域カバー”どころの話やない。
地下鉄でも山奥でも、完全に阿弥陀さんの“光LAN”は繋がってる。
「いやいや、私はちょっと人より暗めで…」
「私の人生は接続障害ばっかりで…」
──そう思う人でも、阿弥陀さんの側からしたら、
「あなたの心の影? うちの光で全消しや」
という世界。
◆光当たったら“有無”も消える
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまう
平等覚に帰命せよ
「光触かぶるものはみな 有無をはなる」
“ある/ない”“できる/できない”“善い/悪い”
こんな私の二元論、そのまま世界のルールと思ってきたけど……光に触れたら、それごと溶けるねん。まるで、
「あなたの人生の“自己採点”必要ありません」
と、阿弥陀さんから答案用紙取り上げられるようなもん。
◆光、邪魔されない
光雲無碍如虚空
一切の有碍にさわりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ
四首目では、「光雲無碍如虚空」
雲みたいに広がるのに、虚空みたいに邪魔なし。どんな心の曇りでも、阿弥陀さんの光は、
「はい、そこ退いて」
と一切詰まらん。
◆光が来たら“業の鎖”が外れる
清浄光明ならびなし
遇斯光のゆえなれば
一切の業繫ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
五番。
「一切の業繫ものぞこりぬ」
“繫(つな)がる”ってのは、過去の業(カルマ)の鎖ね。私ら、
「なんでこんな性格なんや…」
「なんで同じ失敗ばっかり…」
と、自分に手錠かけて生きてるようなもんですが──光に合うたら、その手錠が外れる。外すのは阿弥陀さん。
自分で外そうとしてたら、一生手錠はギッチギチのまま。
◆光炎王、闇を粉砕
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ
最後の六首には、こうある。
「三塗の黒闇ひらくなり」
三塗(さんず)=地獄・餓鬼・畜生の世界。心のどん底のこと。そこが、阿弥陀さんの光で、バーッと開ける。これ、派手な奇跡やのうて、“心がほどける瞬間”のことなんです。
◆今日の法話
これら六つの和讃が言いたいことはひとつ。
「阿弥陀さんの光は
あなたが暗がろうが、
逃げようが、曇ろうが、
届かんことは一度もない。」
親鸞聖人は、自分の心のドロドロを知り抜いたうえで、最後にこの“光”だけを信じはった。
だから和讃は、
暗い話では終わらんのです。
必ず光に向いていく。
◆結び ──「闇がどれだけあっても、光は負けへん」
阿弥陀さんの光は“押しの強い店員さん”みたいなもんで、
「お客さん、暗さ似合いませんよ」
「ほら、これ光、着ときなはれ」
と、無理やりでも照らしてくれる。
そして照らされた瞬間、自分の暗さよりも光の強さの方が圧倒的やと知らされる。
親鸞聖人が歌った六つの「光」は、
すべて “あなたが暗いままで届く光”。
だから、どうぞ安心して、
その光に“かぶられて”くださいませ。
南無阿弥陀仏。