依釈段•結嘆
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
みなさんこんばんは。
蓮夏一照でございます。
今回は、
『正信偈』のこの一文──
「弘経の大士・宗師らは、無辺の極濁悪を救ったで」
「だから道俗(僧も俗も)みんな同じ心で、高僧の教えを信じなはれ」
さて。
この「高僧の説を信ずべし」という一文、
現代の人にはなかなかハードル高い。
「え? 高僧って、どこの誰?」
「宗教に言われても……」
「まず話を聞く気になれへんねん」
──そんな声、そこら中から聞こえてきます。
けれど、この言葉には、現代人にこそ響く“深い含み”があるんですわ。
ではゆるっと解体してみましょ。
◆「弘経の大士・宗師」とは誰か?
ざっくり言うと、
「めちゃくちゃ分かってる先輩たち」
のことです。
仏教の歴史を見れば、お釈迦さんはじめ、
龍樹・天親・善導・法然・親鸞などなど、
とんでもなく“真実に深く触れた人”が何人もおる。
この人たち、何が凄いって──
“人間の濁悪(どろどろしたとこ)をごまかさない”
やんわり言うと“癖の強い私たち”を、丸ごと理解したうえで救いを語ってくれた人たち。
◆で、本題。
「この高僧の説を信ずべし」とは何を意味するんか?
これ、ひと言で言うと、
「自分の思いつきより、人生の達人の言うことを一回聞いとき」
というだけの話です。もっと言うと、
「誤解だらけの“自己判断”だけで仏法を測らんとき」
ということ。たとえば──
◆ 人間、「私が正しい」と思ってる時ほど危ない
◆ 自分の都合で“救いの条件”を勝手に作ってしまう
◆ 「こんな私が救われるわけない」と勝手に線引きする
これ全部、仏法の“専門家”から見たら
「あかんあかん、その方向ちゃうねん!」
という状態なんですわ。
だから親鸞聖人は、こう言うんです。
「わしや法然ら高僧は、みんな“阿弥陀の光に照らされて見えた真実”を言うとるだけや」
「自力の判断でゴチャゴチャ悩むより、その言葉を真っすぐ聞いたらええ」
◆たとえ話
ある男が道に迷いましてな。
スマホの電池はゼロ。
地図も見られへん。
そこへ、その土地の住人が現れる。
「兄ちゃん、その道は行き止まりやで」
「ここ右に曲がらな、帰られへんで」
ところが男は言う。
「いや、なんとなくこっちやと思うんですわ」
住人は思わずつぶやく。
「なんとなくで進んだら遭難するで……」
まさにこれ。
“なんとなくの自力判断”は危険。
だからこそ、
「道を知ってる人のナビを聞け」
というだけのことなんです。
◆ではまとめ
◎ “高僧の説”とは、阿弥陀仏の本願に照らされた真実のこと
◎ 彼らは、凡夫の闇を誤魔化さず語る“本物の案内人”
◎ 救いを妨げるのは、悪ではなく“自分勝手な思い込み”
◎ だからみんな同じ心で、その教えを素直に聞くことが肝心
そして最後に──
親鸞聖人はこんな言葉を残しています。
「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
(自分で“よい・悪い”を判断しても当てにならんということ)
つまりこういうことですわ。
◆しめ
いや〜、人間っておもろいですね。
自分が一番頼りにならへん状態のときに限って、“自分を頼ろう”としてしまう。
せやけど仏法は言うてくれます。
「ええ案内人がおるんや。遠慮せんと、ついて行き」
──これが「高僧の説を信ずべし」の意味。
今日も最後まで読んでくれて、有難う。